2018年06月

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岡藩 大手組御防 大手門の類焼を防ぐ役目

享保十二年(1727年)丁未 久忠公 御年三十歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ 御使者姓名詳ナラス

一、閏正月二十四日、岡城御発駕、二十六日、三佐御乗船

一、二月十日、大坂御着、十一日、御勤、十二日、伏見御着、

十三日、同所並ニ京都御勤、一條右府兼香公ヘモ御出、

二十六日、江戸御着

一、三月十二日、御参勤御礼、御献上例ノ如シ

一、十八日、大手組御防仰セ蒙ラル

      御相役  有馬左衛門佐寿純様

           伊東修理亮祐永様

           間部若狭守詮方様

            四月十六日、御相役伊東様御免ニテ、

亀井隠岐守様仰セ蒙ラル

一、二十四日、侍中定府ノ面々、役人ノ外縁組御制禁ノ処、

向後御免成下サル

※大手組御防 火事の際はそれぞれ大手門・桜田門に集結した。

大手組・桜田組は、主に江戸城の延焼防止を目的として活動し、

江戸城内の火事以外では老中の指示を受けてから出動した。

消火の主力ではなく、火元から離れた場所で火を防ぐため、

防大名(ふせだいみょう)とも呼ばれた。(ウィキペディア)

火消の定員は大名の石高によって異なっていた。

1万石以上では騎馬34騎、足軽20人、中間・人足30人。

10万石以上では騎馬10騎、足軽80人、中間・人足140-150人。

※有馬左衛門佐寿純(ありまひさずみ)、越前丸岡藩の第2代藩主

左衛門佐(さえもんざ)

※伊東修理亮祐永(いとうすけなが)日向国飫肥藩の第6代藩主。

   修理亮(しゅりのすけ)

※間部若狭守詮方(まなべあきみち)越前鯖江藩の第2代藩主

※亀井隠岐守  亀井茲親(かめいこれちか)と思われます。

        石見津和野藩第3代藩主


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      乾し椎茸 OSK HPより

将軍吉宗の母の法要に 岡藩より椎茸 一箱

享保十一年(1726年)丙午 御年二十九歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ、

御使者高田右近右衛門政屋

一、五月三日、端午御献上例ノ如シ

一、七月三日、暑中御献上例ノ如シ

一、十九日、浄円院様去月九日御逝去ニ付、御機嫌御伺、

御使者山路浅之丞頼香差上ラル

一、二十二目、右御中陰御献上 椎茸一箱

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、

御使者鵜飼甚左衛門成章

一、九月日詳ナラス 重陽御献上例ノ如シ

一、十月二十三日、中川大三郎久治宅へ御入

一、十一月二十三日、熊田丹下資房

老職並仰セ付ラル後中川氏ヲ賜フ

一、十二月日詳ナラス 寒中御献上例ノ如シ

一、日詳ナラス 歳暮御献上例ノ如シ

浄円院様 8代将軍徳川吉宗の生母、紀州藩主徳川光貞の側室

※御中陰  死去してから49日間のこと

現在一般に行う中陰法要は

初七日(しょなのか) 七七日(なななのか)(49日、満中陰)

※椎茸一箱 御年譜に2度目の記載です。 乾し椎茸と思われます。

最初は宝永元年(1704)久通公 御年42歳

5月3日、御法事中(5代将軍綱吉の長女鶴姫4月逝去)、

御献上椎茸一箱   

※中川大三郎久治 3代藩主久忠公4男・数馬久隆の名跡

         3代藩主久忠公7男・主馬久周4男 千5百石

※熊田丹下資房  熊田頼母資長嫡子 知行3百石 職知2百石


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    岡藩三佐港 遠見山跡  大分市鶴崎三佐

久忠公 27回の参勤交代

享保十年(1725年) 久忠公 御年二十八歳

一、(9月)二十九日、江戸御発駕

一、十月十三日、京都御勤、一條様へ御出、伏見御着、

十四日、大坂御着、

十六日、同所御乗船、

二十三日、三佐御着、

二十五日、御帰城

一、十一月二十一日、御在着御礼、

御使者伊藤加右衛門利正差上ラル、

御献上例ノ如シ

一、十二月二日、中川主計 弁吉更名 光伴宅へ御入

一、七日、寒中御献上例ノ如シ

一、十一日、田近主鈴長時 老職並仰セ付ラル

一、二十七日、歳暮御献上例ノ如シ

※久忠公の参勤交代経路

(山崎通郡山宿における岡藩主中川氏の宿泊   

茨木市立文化財資料館 清水 邦彦)より

  6代目の久忠は正徳4年(1714年)から寛保2年(1742年)の問、

参勤交代で計27回の移動をしている。

享保2年(1717年)に中国路を通った以外は船を利用している。

海路については、正徳5年(1715年)の参勤時に三佐から室を

利用した以外は、三佐と大坂の間を船で移動している。

※中川主計光伴 戸伏助之進三長2男・戸伏織部三正嫡子

 千2百石

※田近主鈴長時 田近平右衛門長伸3男・田近将監長昌の長男

        3百石、職知5百石 のち 千石


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      岡城址 古大手門より

次期将軍 大納言・家重に お祝いを重ねる

享保十年(1725年) 久忠公 御年二十八歳

一、五月三日、端午御献上例ノ如シ

       大納言様へ御時服二 此節ヨリ始ル、

此後 年始、端午、八朔、重陽、歳暮

御献上アリ

一、六月十一日、暑中御献上例ノ如シ

一、 十六日、嘉祥御菓子御頂戴

一、二十一日、大納言様 去ル十九日西御丸へ御移徏、

御祝儀御献上一種一荷

一、八月朔日、御献上例ノ如シ

一、九月三日、重陽御献上例ノ如シ

一、 十三日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、

御拝領例ノ如シ

一、二十九日、江戸御発駕

※端午 端午の節句・5月5日   

八朔(はっさく) 8月1日 幕府の祝日

家康が江戸城に入った日

八月朔日(ついたち)の略

重陽(ちょうよう)9月9日 節句

嘉祥(かじょう)6月16日 菓子か餅を16個神に供えたあとに食べて

              疫病を払う行事を行った。

※大納言様  若君(次期将軍)家重

※御移徏(ごいちょく) 移るの丁寧語

※一種一荷  一種とは肴(さかな)一式、

一荷とは酒樽一樽


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岡城址 近戸御門内石垣 修復願いを出す

享保十年(1725年) 久忠公 御年二十八歳

一、三月十一日、若君様御同座御参勤御礼仰セ上ラル、

御献上例ノ如シ、

若君様へ御太刀馬代黄金壱枚

一、十六日、神田橋御門御番仰セ蒙ラル、

御相役 金森出雲守頼時様

一、二十六日、岡城近戸御門内石垣 御修補御願済セラル

一、四月十一日、若君様去ル九日御元服、

大納言御任官位ニ付、御祝儀

        御能御拝見物、柳ノ間ニ於テ御料理御頂戴 

例格紅葉ノ間ノ処、

        此の節ハ一統 柳ノ間ナリ、御間支カ詳ナラス

一、十八日、右御祝儀御献上

      公方様へ御太刀馬代

      大納言様へ右同

※若君様御同座・・。将軍吉宗に若君家重も同座して挨拶を受けた。

※金森出雲守頼時  美濃郡上藩(ぐじょうはん)藩主

※岡城近戸御門についての不染斎随筆の記載  岡に入部当時は、

今の下原口を大手とし、今云う古大手が搦め手で場内は狭く縄張り

も充分でない。今の西の御郭の広庭の辺りには、百姓家が少々在り、

本丸の所は天神山と唱え其の辺には松樹が森々と繁茂し中に天神祠が

あった。これを本城に取り立て天神を城の鎮守とし、其の後、城が

両口ばかりでは不便であるので近戸口を切り開いて三口となった。


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