2018年06月

イメージ 1

        城原神社前井路

久忠公 正月 参勤交代出発 日光に参拝 

享保十四年(1729年)己酉 久忠公 御年三十二歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ 

御使者姓名詳ナラス

一、十二日、岡城御発駕、

十五日、三佐御乗船

一、二月二日、大坂御着、三日、御勤、

四日、伏見御着、御勤、京都御勤、

十七日、品川御着、

水野和泉守忠之様・安藤対馬守信友様へ御勤、

兼テ御願済ニテ直ニ日光御社参

一、二十一日、日光御宮御拝礼 御大紋 

御献上御太刀銀馬代、

且 御霊屋へ白銀五枚御供、

二十二日、同所御発駕、

二十五日、御帰府

※水野和泉守忠之(みずのただゆき)老中 三河岡崎藩第4代藩主

※安藤対馬守信友(あんどうのぶとも)老中 美濃加納藩の初代藩主

   相当の文化人だったようで、俳諧、茶道で名前を残しています。

     雪の日や あれも人の子 樽拾い   冠里

3代目金馬の枕話のなかでで聞いたように思います。

※御大紋  五位以上の武家の礼装  

      忠臣蔵、松の廊下で浅野長矩がその礼装で吉良に

切りつけています。

※御霊屋  徳川家歴代将軍の墓所  東照宮は家康を祀る神社

※兼テ御願済ニテ・・。日光に参拝の許しが出たので、112日、

例年より早く岡城を出発したようです。


イメージ 1

阿蘇野の農民 天領に逃散(ちょうさん)御年譜に記載なし

享保十三年(1728年)戊申 久忠公 御年三十一歳

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、

御使者仲島滝右衛門善昌

一、三日、岡風雨洪水、

処々損失 十月二十一日御届出ル

一、九月日詳ナラス 重陽御献上例ノ如シ

一、十九日、中川将監長昌嫡子平右衛門長定、

部屋住ナカラ老職月番仰セ付ラル

一、十月十五日、文昭院様十七回御忌御法事ニ付、

御香奠御献上白銀弐枚

一、十一月十一日、常憲院様二十一回御忌御法事ニ付、右同

一、十二月十二日、寒中御献上例ノ如シ

一、日詳ナラス 歳暮御献上例ノ如シ

※岡風雨洪水  御年譜附録より 岡風雨洪水ノ條

 附録 記録ニ、公儀御届

  一、井手落損 五百拾壱口  一、水車壱輌 流出

  一、落橋   壱ケ所    一、潰家(つぶれや)三拾三軒

※中川将監長昌  田近平右衛門長伸の3男 4千石

長昌の嫡子平右衛門長定  

※文昭院   6代将軍家宣の院号

※常憲院   5代将軍綱吉の院号

※享保13年直入郡阿蘇野組(現湯布院町庄内町)の農民が、

天領下田北に集団で逃げてくるという逃散があったのを皮切りに、

岡領各地の農民がしばしば逃散をくり返すようになった。(長湯町誌)

※享保13年阿蘇野組の農民(人数は不明)は、とつぜん隣り合わせの

幕府領下田北村に逃散した。逃散の理由は定かではないが、恐らく

生活困窮に根ざしたものであろう。この逃散事件は結果的には

高松代官所(大分市)の役人のとりなしで帰村したが、岡藩内では

最初の逃散として注目される。(庄内町誌)

 
 

イメージ 1

将軍吉宗の子 家重 天然痘に罹る

享保十三年(1728年)戊申 久忠公 御年三十一歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ 

御使者姓名詳ナラス

一、三月十二日、大納言様御痘瘡御快然、

御祝儀御献上一種一荷

一、四月朔日、有章院様十三回御忌御法事ニ付、

御香奠御献上白銀弐枚 

御法事中御菓子、

御法事済御肴御献上ニ及ハス旨御達、

此後皆同

一、二十五日、公方様去ル二十一日日光山ヨリ還御ニ付、

御祝儀御献上、

公方様へ二種一荷、

大納言様へ一種一荷

一、五月四日、右同ニ付、御機嫌御伺、

御使者佐野唯右衛門正英差上ラル

一、同日、端午御献上例ノ如シ

一、六月十三日、暑中御献上例ノ如シ

※大納言様御痘瘡 大納言家重が痘瘡(とうそう)に罹る

               疱瘡(ほうそう)

   御快然とあるので跡が残らなかったのでしょうか。

※有章院様  7代将軍徳川家継(いえつぐ)の院号

※公方様   将軍のこと この場合8代将軍吉宗

※一種一荷  一種とは肴(さかな)一式、

一荷とは酒樽一樽


イメージ 1

      山際をくり抜いた井手

久忠公の病気 81日に多いのは何故?

享保十二年(1727年)丁未 久忠公 御年三十歳

一、八月朔日、御献上例ノ如シ、

御病気ニ付、御使者中川丹蔵広安

一、九月三日、重陽御献上例ノ如シ

一、十九日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、

御拝領例ノ如シ、

大納言様ヨリ縮緬三巻

一、十月六日、江戸御発駕、

二十日、京都御勤、一條様へ御出、

伏見御着、御勤、

二十一日、大坂御着、二十二日、御勤、

二十三日、同所御乗船

一、十一月四日、三佐御着、

七日、御帰城

一、二十六日、寒中御献上例ノ如シ

一、十二月七日、御在着御礼、

御使者安西政次郎宗治差上ラル、

御献上例ノ如シ

一、日詳ナラス 歳暮御献上例ノ如シ

※御病気   御年譜には症状についての記載がありません。

   しかし、8月朔日(1日)に御病気ニ付、・・。

   と云う記載が下記の年の8月朔日に毎回あるのは何を

意味するのでしょうか。

   ①享保8年  ②享保12年  ③享保15年 

④元文2年  ⑤元文4年   ⑥寛保元年

※大納言様  将軍吉宗の長男・次期将軍徳川家重


イメージ 1

   今も現役の 井手

岡藩 4月 7月 2度の洪水被害

享保十二年(1727年)丁未 久忠公 御年三十歳

一、四月二十八日、岡大雨洪水、

処々破損 六月十三日御届出ル

一、五月三日、端午御献上例ノ如シ

一、六月二日、暑中御献上例ノ如シ

一、十六日、嘉祥御菓子御頂戴

一、七月八日ヨリ十日マテ、岡風雨洪水、

延々破損 八月十一日 御届出ル

※御年譜附録の記録

一、四月二十八日、岡大雨洪水ノ條

 附録 記録ニ、公儀御届

  一、田畠高三拾三石余  但、畝反四町六反余

  一、井手落損千三百八拾壱ロ

  一、水車弐輌流出    一、落橋五拾三ケ所

  一、潰家弐拾軒     但、山崩押潰申候

  一、溺死  男壱人

一、七月八目ヨリ十日迄、岡風雨洪水ノ條

 附録 記録ニ 公儀御届

  一、井手落損 千五百七ロ  一、落橋 拾壱ケ所

  一、潰家   弐拾弐軒

      内  十四 崩押潰  八軒風吹倒

  一、山崩死 八人、 内 男五人  女三人

  一、同死牛  壱疋

※井出 落損数が異常に多いのは、井手の数も増加し

    距離も伸び、水を板囲い程度で流していたからでしょう。

※水車弐輌流出  水車2両流失

    御年譜に水車の記載が初めて出ました。

    井手(水路)より1m~1.5mほど高い田畑であれば、

    水車で水を揚げることが出来たと思います。


↑このページのトップヘ