2018年04月

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      中津城   中津市HPより

中津城の受取、城番役を命じられる 小笠原家 改易 

享保元年(1716) 久忠公 十九歳

一、(10月)二十四日、江戸表去ル十二日御差立ノ早追

佐野斧右衛門満利・原野分太夫義任、

大坂マテ道中 四日限ニテ御奉書持参、

同所ヨリ片山源左衛門・柘植丹右衛門コレヲ受取り、

中国路八日限ニテ岡着

   小笠原造酒助病死付、豊前国中津城

    其方罷越可請取之旨、被仰出候、

可被存其趣候、且又在番被仰付候間、

家来残置番等可被申付候、恐々謹言

     十月十二日     戸田山城守忠真

               久世大和守重之

               阿部豊後守正喬

               井上河内守正岑

     中川内膳正殿

   四万石之以役高 用意有之、中津城請取之

   番人等差置可被申侯、

為御目附筧新太郎・徳永兵部被差遣之候間、

委細被相談候之上、在所江可被罷帰候、以上

     十月十二日     右御連名

一、同日、右御受御使者植山源大兵衛・

柳原太郎兵衛光重、

大坂ヨリ道中五日限ニテ差立ラル

※小笠原造酒助 小笠原 長邕(ながさと)別名・造酒助

豊前中津藩の第5代藩主。

この年、享保元年(1716年)96日に6歳で死去。

当然、跡継ぎが無く改易になりました。

※御奉書 幕府の指令・命令書

    江戸から岡まで12日で届いたようです。

※四万石之以役高  中津城受取り、城番の役の費用4万石を

    幕府で用意してくれたようです。

 


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      岡城址  中央 熊沢蕃山碑  右 小河一敬碑

8代将軍に 吉宗  紀州徳川家より

享保元年(1716) 久忠公 十九歳

一、八月朔日、御献上例ノ如シ

御使者姓名詳ナラス

一、十三日、吉宗公将軍宣下

一、二十七日、右ニ付、御礼御献上御太刀、

御使者辻平七

一、九月日詳ナラス 重陽御献上例ノ如シ

一、日詳ナラス 将軍宣下ニ付、御祝儀、

御使者森本増右衛門宗偏差上ラル

        御献上詳ナラス

一、十月朔日、旅行ノ節 野袴着用ノ儀、

老職並ニ番頭マテ着用致スヘキ旨仰セ出サル

※徳川吉宗  徳川御三家の紀州藩2代藩主・徳川光貞の4男

       越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主

       将軍職を享保元年(1716)〜延享2年(1745年)まで務めた。

       寛延4年(1751年)に死ぬまで大御所。享年68歳

※野袴着用  水戸黄門が旅で着用している袴です。

       着用しなさいと云われるまでは、

幕府から規制されていたのでしょうか?


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久忠公 4月22日江戸出発、5月19日岡城に帰着

正徳六年(1716)丙申  久忠公 御年十九歳

一、五月三日、伏見御着、

四日、同所並ニ京都御勤、

一條様並ニ政所様へ御出、

六日、大坂御着、御勤、

七日、同所御乗船、

十七日、三佐御着、

十九日、御帰城

一、日詳ナラス 先月晦日、将軍家継公薨御ニ付、

御機嫌御伺トシテ、

御使者 粟生恵左衛門

猶又 伊藤権左衛門差上ラル

一、六月九日、諸大夫年始御登城ノ砌、

前々ノ通大紋御着用アルヘキ旨御達

一、十一日、暑中御献上例ノ如シ

一、日詳ナラス 御在着御礼、

御使者鵜飼甚左衛門成章差上ラル、

御献上例ノ如シ

一、(6月)二十二日、年号改元

※諸大夫(しょだいぶ)五位の大名・旗本がこの官位相当です。

※大紋(だいもん)  五位以上の武家の礼装

     映画「忠臣蔵」で浅野内匠頭長矩が松の廊下の場面で

     着用しています。

※久忠公は正徳元年(1711)御年14歳で

従五位下、内膳正に任ぜられています。


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7代将軍家継8歳で死去 紀州徳川吉宗 将軍家を継ぐ

正徳六年(1716)丙申  久忠公 御年十九歳

一、閏二月二十三日、公方様御縁組、京都へ御使者済セラル、

          御祝儀御献上二種金千匹

          一位様へ一種金五百匹

          月光院様へ右同

一、四月十五日、御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル、

御拝領例ノ如シ

一、二十二日、江戸御発駕

一、晦日、将軍家継公薨

御有章院様ト称シ奉ル

一、同日、紀伊中納言吉宗卿、

将軍家御相続

※公方様御縁組 正徳5年(1715年)9月、霊元法皇(正徳3年に落飾)は、

2歳の皇女・八十宮(吉子内親王)を家継に降嫁させることを決めた。

正徳6年閏218日(1716410日)には

納采の儀を済ませるが、そのわずか2ヶ月後の

享保元年430日(1716619日)に家継が薨去したため、

史上初の武家への皇女降嫁と関東下向には至らなかった。

しかも本人は僅か2歳で後家となった。(ウィキペディア)

※納采の儀  結納にあたる儀式

※古典落語に「紀州(きしゅう)」という演題があります。

  将軍家継が急死したため、徳川の御三家の中から

尾張藩主・徳川継友と紀州藩主・徳川吉宗の二人が将軍の候補に

上げらます。

    そのときの尾州公継友と鍛冶屋の作業音を噺にしたものです。

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久忠公 讃岐高松藩松平頼豊の養女(公家の娘)と結婚

正徳六年(1716)丙申  久忠公 御年十九歳

一、正月二日、年始御礼、御献上・御拝領例ノ如シ

一、三日、御献上例ノ如シ

一、十八日、御婚礼、若御奥様御名久卜称シ奉ル

一、二月十五日、右御礼仰セ上ラル、

御献上御時服四

一、二十一日、先達テ公儀ヨリ

御領分処々番所ノ儀御尋ニ付、

大御目附横田備中守由松様並ニ杉岡弥太郎様へ御届

   岡城下竹田町口八ケ所

   大分郡三佐浦川口壱ケ所

   同町口壱ケ所

   大野郡犬飼町口壱ケ所

   同郡尾平山口細田番所二ケ所

   同郡木浦山同六ヶ所

※御婚礼、若御奥様御名久卜称シ奉ル

松平頼豊(まつだいらよりとよ)、讃岐高松藩の第3代藩主の養女、

公家の正親町実豊(おおぎまちさねとよ)の娘

※横田備中守由松 大目付 4,500石、知行地は近江と武蔵。

横田家は武田家の遺臣。

※杉岡弥太郎(杉岡 能連(すぎおか よしつら)弥太郎は通称

  後、勘定奉行

※岡城下竹田町口八ケ所(の番所)は、各々町内の者が1ケ所2

 当番で夕時6時〜明け方6時まで詰めていたようです。

 その他、町内夜廻り、風の強い夜の増廻り、特別警戒の昼夜廻りなどで、

 治安維持、火災防止に努めていました。


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