2018年03月

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御朱印御改  現物を運ぶ役目は命がけです

宝永八年(1711)辛卯 久忠公 御年十四歳

一、正月三日、年始御礼、御献上例ノ如シ

一、同日、御盃台梅ニ鶯御献上 

磨土器ニ添御酒代金百匹

一、四日未ノ刻、土器町観音堂隣家ヨリ出火、

浜御屋敷御類焼

一、十九日酉ノ刻、堺町一町目先泉町ヨリ出火、

増火消御奉書御到来、御出馬

一、同日、久通公御遺物御献上御刀一腰 銘真守、

代金三拾枚

一、二月三日、御朱印御改ニ付、豊後御差立、

附添森本増右衛門宗偏・

富賀木工左衛門正利

一、八日、浄光院様三回御忌御法事中、

御献上竜眼肉一箱

一、十日、右御法事ニ付、御香奠御献上白銀三枚

一、十二日、御法事済、御献上鮮鯛一折

※御朱印御改  先の将軍が発行した岡藩の所領を定めた

書類(朱印状)を確認する儀式。

※確認が終わると、新将軍が新しい朱印状を発行したようです。

 臼杵市の歴史資料館に御朱印箱が展示されています。

 縦60cm、横50cm、長さ1m程の黒漆塗りの立派な箱です。


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華やかで大名行列のような大名火消

宝永7年(17101219日、増火消御奉書御到来とあるように、

出火の節、大御目附より増火消奉書が来て藩主が出馬します。

臼杵藩でも岡藩と同じ行動をしたと思われます。

以下、「勤番武士の心と暮らし」より紹介します。

〇絵は上段が先頭で下段の隊列が続いたものと思われるが、

稲葉家の家格を示威するために直接消火に必要のない者も

引き連れている。

御留守居役の箕浦右膳殿や御目付の稲葉司書、御物頭の大津留登、

御馬廻りの右馬之介、宋七、御先乗りの仲村喜一郎、幸之進、

馬役の与四左衛門らが九頭の馬に乗っており、そのほか御医者や

会所の御祐筆、足軽と御徒士、そして梯子二、龍吐水二、纏二、

幟旗五、鑓三などなど、大名火消とは小さな大名行列と同じような

雰囲気であることがわかった。

昼の出動だったので見物人がたくさん出ていて「稲葉様の隊列はまるで

四十七士の絵のようだ」と話していたと書いている。

※奉書火消 寛永6年(1629年)老中の名で「奉書」を諸大名に送り、

召集して消火に当たらせる。

※奉書火消を制度化 寛永20年(1643年)、幕府は6万石以下の大名から

16家を選び、4組に編成して新たな火消役を設けた。

※増火消  大火の場合の火消し支援

大名自らが火事場に向かうので火事装束は次第に華美で派手なものと

なったので、幕府ではいろいろと規制をしています。


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     今年の岡城址の桜

中川久忠公(万之助)火消しに出動

宝永七年(1710)庚寅 久忠公 御年十三歳

一、(12月)十四日、秋元但馬守喬朝様ヨリ御留守居召呼レ、

秀成公御任官ノ年月御尋ニ付、

文禄二年月日ハ相分ラサル旨、即日御書附差出サル

一、十九日、松平伊豆守信祝様柳原御中屋敷ヨリ出火、

増火消御奉書御到来、御出馬、

長崎町松平大炊頭昌邦様御屋敷長屋

並ニ一町目角町御防止

一、二十三日、秋元但馬守様ヨリ御留守居召呼レ、

去ル十九日火事ノ砌罷出、精出ス段、

上聞ニ達スルノ旨仰セ聞ラル

一、二十五日、此度近衛太閤基煕公御参向、

去ル二十一日御登城ノ砌、

当月十九日出火ノ節、中川万之助罷出、

家来ノ者共精出シ候ト、公方様御咄コレアリ、

近衛様御懇意恩召ニ付、

御大慶ナサレ仰セ知サルヽ旨、

諸大夫中ヨリ小泉勘左衛門安勝へ演説ス

※秋元但馬守喬  秋元喬(あきもとたかとも)か?

老中 元禄12年(1699年)〜正徳4年(1714年)

※松平伊豆守信祝(まつだいらのぶとき) 前名・信高

       奏者番、大坂城代、老中など要職を歴任

※松平大炊頭昌邦 後、吉邦 越前福井藩の第8代藩主

※御参向 参上  高位の方の所へ出向くこと

※近衛家の接待が縁で、久通公は懇意にしてもらっていた。

※諸大夫  近衛家の実務責任者。武家では家老。

※砌(みぎり) その節、

※次回、臼杵藩を例に大名火消しの様子を

国枝外右馬の日記で紹介します。


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       3月27日 岡城址の桜

御献上の数々 岡藩江戸留守居役 準備が大変

宝永七年(1710)庚寅 久忠公 御年十三歳

一、(9月)十三日、青陽院様三十三回御忌御法事中、

御献上氷砂糖一壺

一、十五日、右御法事ニ付、御香奠御献上白銀三枚

一、同日、御法事済、御献上鯛一折三

一、十月九日、常憲院様三回御忌御法事中、

御献上竜眼肉一箱

一、十一日、右御法事ニ付、御香奠御献上白銀五枚

一、同日、御法事済、御献上鴨五羽

一、十一月十一日、中御門院御即位

一、二十六日、寒中御献上鮮鯛一折三

一、十二月十一目、歳暮御献上 御小袖三、

御台様へ 白銀三枚

※青陽院 水野出羽守忠職様御後室 法号・青陽院

久盛公の嫡女仙姫のこと、

母は松平隠岐守定勝の娘 貞享3年(1686)死去 

※常憲院  徳川綱吉の院号

※中御門(天皇) 東山天皇の第5皇子

※竜眼肉  リュウガンの果肉を乾燥させた滋養強壮漢方薬。

※江戸では献上品を整えられないので、岡藩上げて準備を

したことだろうと思いますが、まだその記録を目にした

ことがありません。


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献上品を差し上げ、江戸城内を案内される

〇「御本丸御玄関口より蘇鉄の間に詰 中の口より献上物皆々受取

 御坊主案内に来り御書院に参る 大広間公方様御逢いの間 

西王母の絵の戸を明け 大廊下浅野様刀瑕など見侯て

日光御三家の詰所桜の間 月並御逢の後ろ書院 帝鑑の間 

それよりお庭武芸上覧の所 それより柳の間は三間なり 

此の柳の間より大広間の方に出候て蘇鉄の間に帰る

惣鉢金貼り付け大そうの物じゃ 松の間菊の間は御役人の御詰所故

見がたし……」

 二度とないチャンスにお城の内部をスケッチしているが、

外右馬が入れるのは勿論ここまでである。

※この様にして献上品は差上げられ、将軍が目を通し、藩主が国に

 帰る際はその倍の土産?(品物)をくれたそうです。

 御台様などに差し上げた献上品の見返りはありません。

※献上品を届けた際に、江戸留守居役や御供が江戸城御殿を

見ることができたとは、初めて知りました。

浅野様(内匠頭?)刀瑕(かたなきず)が

本当に残っていたのでしょうか?

※柳の間 4位以下の外様大名の控えの間。 

 岡藩中川家、臼杵藩稲葉家、佐伯藩毛利家などの間

※上の絵の説明 藩主稲葉幾通の行列が江戸城に上がる際、

 虎の門に差し掛かり、横から延岡藩の行列が出てきた。

 先頭の取り合いになり、双方が走り出してしまった。

 この張り合いで、稲葉家と延岡藩内藤家の家来の喧嘩になった。

 その様子を国枝外右馬が書いています。

 絵の中ほど上に「内藤様の駕籠は投げ出されたよし、

 あやまちがなければよいが  」とあります。


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