2018年01月

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幕府裁定書

元禄十三年(1700)庚辰 久通公 御年三十八歳

一、(9月)四日、宇目郷卜日州臼杵郡河内名村・八戸村国堺争論

     コレアリ、

  去ル十月、宇目郷ノ百姓、公儀へ御訴申上、当三月十四日、

御評定所ニ於テ初テ日州ノ百姓卜対決ニ及ヒ、其後度々召出サレ

御調ヘノ上、

今日御評定所ニテ御墨引ノ絵図、御老中御裏書ヲ以テ双方へ下シ置レ、

国堺仰セ付ラル此絵図、宇目郷重岡村大庄屋方ヘコレアリシ処、

其後裁許所ニ納ル

      御裏書 (前半)

豊後国大野郡宇目郷重岡村・小野市村与

日向国臼杵郡河内名村・八戸村百姓山境争論之事、

 重岡・小野市両村百姓訴趣、梓山峯ヲ越、豊後杉・日向杉与

称来候大杉弐本有之、此杉之中分、

従往古豊後・日向両国之境ニ相極候、

其上梓四代大明神之社石相残り、特右之神田重岡村之内ニ

梓田与名付に今有之侯、

又同山続東之尾崎惣太郎川之内、切石与申所堺ニ相守候、

梓山より西ハ水なし・飛瀬両所下之尾通為境之由申也、

河内名村・八戸村百姓申候ハ、梓山峯通両国境ニ相極候、

梓大明神ハ宇目郷之鎮守ニ不限、河内名村中毎年十一月六日、

祭礼執行之候、東之尾崎境之儀、山出之はき従古来国境ニ相定候、

西方ハ水をし・飛瀬国境ニ侯、然ニ下之尾通為境之由申掠旨答之、

(以下次回)

※御裏書 伊予「目黒ふるさと館」の絵図の裏に、評定所の裁定を

  書いているように、「梓山付近絵図」の裏にこの御裏書が書かれて

  いるようです。

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有馬の後の、譜代大名三浦氏は紛争収拾の役目?

〇有馬直純と延岡藩

慶長19年(1614年)、キリシタン大名だった有馬直純は、

島原日野江藩より延岡藩に53000石で入封した。

元禄3年(1690年)、第3代藩主・清純の時代、

武器を携えて隣藩の高鍋藩に逃散する山陰・坪谷村一揆が起こった。

元禄4年(1691年)一揆首謀者の処刑と同時に、

清純は一旦改易され、陣屋大名に格下げされ後、

越後国糸魚川藩5万石に転封となった。

※その後、延岡藩には

元禄5年(1692年)、譜代大名三浦明敬が下野国壬生藩より

23000石で入封しました。

※三浦氏の延岡入封は、高鍋藩や豊後岡藩との境界などの争いを

 治める使命を幕府より与えられていたように思えます。

 岡藩では、藩士がこの訴訟に直接関わってはいませんが、

延岡藩では、藩士が直接、評定所に申し立てをしています。

※百姓同士の境目論争に、入封して年月の浅い三浦氏の家臣が、

昔からの争いの経緯を詳しくは知らずに、江戸まで出て行って

評定所で申し立をしたのは藩主の意向と思います。

※古い「書付」も藩主の意向を生かした偽作ではないかと思います。

※境目論争は延岡藩主導、評定所裁定。

双方の百姓や岡藩には多少の不満はあったようですが、

幕府の権威を尊重して一先ず鉾を納めてと云うところでしょう。

※明治に入ってから、争いが再燃したのは、

「百姓は末代、地頭は一時」の現れと云えます。

※正徳2年(1712年)、三浦明敬は延岡藩が落ち着いたのを

見届けたように三河国刈谷藩に転封となっています。

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                梓山付近絵図

豊後側の主張は一部だけ認められる

〇元禄13年9月4日、幕府評定所は双方の主張を記したうえ、

次のように判決している。

① 梓山近辺は、上峰通り絵図山形分明であり、

豊後側の主張は「一向いわれざる事」として、これを排し、

② 宗太郎山出しの吐き付近も、「納徳(なつとく)たちがたし」と

主張を認められなかった。

③ 西の桑原川吐き付近は、

日向側の主張を「正しからざる峯筋境相見へ候」と

豊後側の主張を認めた判決となっている。

〇幕府としては山頂の稜線をもって国境とする判決であったが、

こうした決着は大まかなものであり、谷境等複雑な場所について、

明確な判決に欠けているため、

この桑原川吐き付近と宗太郎川山出しの吐き付近の2ケ所は、

明治になって再び論争の地点となった。

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証拠として古い「書付」を提出  日向側が有利に

〇奉行は双方に証拠の提出を命じた。

〇豊後側は証拠として「豊後杉」「梓日代大明神の社石」と、

証人として「社人」がいると答えている。

 しかしこの「社人」は

「豊後の者に候へば悪敷(あしき)は申す間敷(まじ)く候」と

却下されている。

〇日向側は古い「書付」を提出した。

奉行はこれを一読して、昔からの書付に見えると言い、

証拠として取り上げている。

この古い「書付」の提出で、その後の裁判は日向側に有利に

進行したとある。

〇日向側はこの「書付」を基に実地見分をしたのであろう。

その内容は現場の状況とほとんど一致していた。

① 日向側の「書付」での主張は、境が赤松川と宗太郎の

吐きであるとした点で明確であった。

 ② 尾根や谷の位置から境の線引きが確定できる。

 ③ それに比べ豊後側の主張では、峯、川の位置関係が複雑に

   入込、境が極めて不自然である。

〇「書付」は奈良時代、延暦元年(7828月にしたためられ、

日向の阿智太郎右衛門と豊後の清谷次郎兵衛の両人が境を

改め署名し、末代のために一書づつ所持していたといわれ、

その子孫が連綿と書き継いだものといわれている。

延暦元年というのは信じられず、いうまでもなく

後世の偽文書であることは間違いない。

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豊後側の訴訟項目をすべて否定  

〇日向側の「返答書」の概略

① 両国の境は「梓山国見峠峯通り」であり、

これより南に14町(約1527m)下った所の日向地内に

ある大杉2本は、梓山2本杉と呼ばれている。

ところが豊後側は豊後杉・日向杉と言っているが、

これは勝手に言っていることである。

② また、この近辺の山林は累年にわたり延岡領の材木商人に

売買しており、そのため役人や大鋸(おおのこ)、

木挽(こびき)が出入りしている。

③ 幕府巡見使等の通行の際には毎回、川内名村より峰通り

国境まで掃除をし案内している。

④ 大杉2本の内、道筋より下にある杉を

日向では矢立の杉とは呼んでいない。

 ⑤ 梓大明神の社石を信仰しているのは宇目の者ばかりではなく、

近辺の人々も信仰しており、これを宇目の鎮守のように言って

いるのは偽りである。

⑥ そして峰通りより14町も入込んだこの道筋を境というのは、

全く言い掛りである。

 ⑦ 東の方の豊後から日向に流れ出している川の山出しの吐きが

境であるのに、豊後の者共はこれより5町(約546m)南へ下り

日向地内にある切石が境であるといつわり掠めている。

⑦ この所は先年より度々論争におよんだ場所である。

 ⑧ 西の方水無し飛瀬の谷通りが古来よりの境であるのに、

豊後の者共は下の尾通りが境であるというのは偽りである。

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