2018年01月

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元禄十四年(1701)辛巳 久通公 御年三十九歳

一、四日、(7月)先達テ仰セ蒙ラル豊後一国絵図出来、

御評定所ニ御差出

一、八月朔日、御献上例ノ如シ

一、九月三日、重陽御献上例ノ如シ

一、十一月二十三日、岡城外曲輪石垣御修補御願済セラル

一、十二月十四日、寒中御献上例ノ如シ

一、二十一日、歳暮御献上例ノ如シ

※先達テ仰セ蒙ラル豊後一国絵図

 元禄十年(1697)丁丑 久通公 御年三十五歳

   閏二月四日、豊後一国ノ絵図、以前ノ図粗キニ付、

改メ差出スヘキ旨、御当家卜稲葉能登守知通様へ一同御達

※この時の元禄絵図は残っていないようですので、

天保国絵図を掲載しました。

※縮率・描法等は元禄図と同様で、

1里を6寸とする縮尺(21,600分の1)で、山、川、道路等が

描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。

郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、

白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。

  (絵図、説明文ともに国立公文書館デジタルアーカイブ)

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元禄十四年(1701)辛巳 久通公 御年三十九歳

一、(4月)二十九日、浅草御蔵火ノ御番仰セ蒙ラル、

御相役松平和泉守乗長様

一、五月三日、端午御献上例ノ如シ

一、四日、御内証御献上唐織五巻

一、六月二十二日、暑中御献上例ノ如シ

一、二十七日、定府ノ面々家内宗門改書附銘々相認メ、

江戸宗旨奉行へ差出スヘキ旨仰セ出サル

一、七月朔日、江戸貝塚青松寺へ御位牌堂御建立、

御代々ノ御位牌御安置

※浅草御蔵  蔵前という地名は幕府の浅草御蔵があったことに

由来する。

この蔵は幕府が天領から集めた米を収蔵するためのもので、

元和6年(1620年)に鳥越神社の丘を切り崩し隅田川を

埋め立てて造られた。

この蔵の米が旗本・御家人たちの扶持米となった。

この地に多くの札差や米問屋が店を構え、札差は武士に代わって

御蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。

札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、

手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売った。

 

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               芳姫の墓  竹田市西光寺

元禄十四年(1701)辛巳 久通公 御年三十九歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ、御使者野殿兵橘光重

一、二十七日、岡城ニ於テ御女子死胎御出産、

御母ハ侍女父姓詳ナラス西光寺ニ葬り奉ル、

御法号照林院殿円融芳樹童女 中川芳姫

一、三月五日、岡城御発駕、中国路御通行、

二十三日、大坂御着、

二十五日、伏見御着、美濃路御通行

一、四月十一目、此節ハ御旅中処々 御滞コレアリ、

御参府御延着ノ段御届差出サル

一、十三日、江戸御着

一、二十七日、御参勤御礼、御献上例ノ如シ

※後に芳姫と名付けられた童女は、今も西光寺裏手の中川家墓地に

 眠っています。御覧になってお分かりのように、大変かわいらしい

 御墓です。

※芳姫の墓の右隣、秀成公7男主水の墓を挟んで

2歳で亡くなったアクリの墓が立っています。

 

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       岩戸は藩境の 人や物の交易 の要衝だった

元禄十三年(1700)庚辰 久通公 御年三十八歳

一、二十二日、臼杵領境岩戸川飛石百姓共、

毎度争論致スニ付、

向後ハ飛石ナシニ申シ付へキ旨、

御当家郡奉行ヨリ臼杵郡奉行へ書状ニテ申シ替シ、

相済ム 

其後又々飛石出来

一、十一月二十二日、寒中御献上例ノ如シ

一、十二月十八日、歳暮御献上例ノ如シ

※毎度争論致ス・・。論争の内容は書かれていませんが、

川の中の飛び石が大水の度に流れたり、動いたりするので

その補正に関係する事かと推測されます。

※岩戸には今でも大水の時は浸かってしまう沈み橋があります。

※岩戸は、岡藩と臼杵藩の境界にあり、藩の目を盗んで商売を行うのに

都合のよい位置にあった為、その取り締りと専売品、関税品を扱う

中継問屋が設置されます。

 藩の財政が苦しくなるにしたがって、ここを通る品物すべてに

課税をしたようです。

 しかし、武士が金銭を扱うわけにはいかないので、

指定商人に中継問屋を経営させ、その中から利益の一部を

上納させていたようです。(清川村史)

 

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        評定所の役職名と氏名

元禄十三年(1700)庚辰 久通公 御年三十八歳

      御裏書 (昨日の続き)

遂糺明処、西ハ桑原川はき合より、束ハ山出之はきヲ上り

峯通、絵図山形分明ニ相見候、

重岡村・小野市村百姓所指之傍示、

至梓山、峯ヨリ南大杉迄引下ケ、又峯江引上ケ為境旨、

一向不謂事ニ候、西方ハ河内名村・八戸村百姓申所不正、

峯筋境ニ相見候、東方ハ山出之はき是又峯通慥ニ候上ハ、

 重岡村・小野市村百姓所訴難立、仍為後証、

絵図之面東西峯通ニ随引墨筋、各加印判、両国境相定、

双方江下置畢、自今己後、永守此旨不可違犯者也

    元禄十三年辰九月四日    

戸 備前 印(勘定奉行 戸川備前守安広)

       久 因幡 印( 〃   久貝因幡守正方)

       荻 近江 印( 〃   荻原近江守重秀)

       井 対馬 印( 〃   井戸対馬守良弘)

       保 越前 印(町奉行()保田越前守宗郷)

       松 伊豆 印( 〃 ()松前伊豆守嘉広) 

       阿 飛騨 印(寺社奉行 阿部飛騨守正喬)

       永 伊賀 印( 〃   永井伊賀守直敬)

   湯治御暇付、無加印 

松 丹後  ( 〃  松平丹後守重栄)

       青 播磨 印( 〃  青山播磨守幸督)

       但馬   印(老 中 秋元但馬守喬知)

       佐渡   印( 〃  小笠原佐渡守長重)

       相模   印( 〃  土屋相模守政直)

       豊後   印( 〃  阿部豊後守正武)

※この署名から評定所の構成メンバーが分かります。

 

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