2017年09月

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延宝九年(1681年)辛酉 久恒公 御年四十一歳

一、七月十四日、御巡見使 駒井次郎左衛門政勝様・

小田切喜兵衛直利様・水野小左衛門守重様

宇目御入込ミ、酒利御泊、

十五日、宇田枝、

十六日、竹田、

十七日、湯原、風雨ニ付、同所ニ二十日マテ御逗留、

二十一日、阿曽野ヨリ田野へ御移リ此節ハ老職御附添ナシ

※御巡見使 ①御料巡見使 天領(公儀御料地)や旗本知行所を監察

②諸国巡見使 全国の大名を監察する

寛文445日に全ての大名に対して領知朱印状が交付

宗門改が全ての領主に対して義務付けられた。

寛文7年閏2月に宗門改めの実施状況を確かめる

諸国巡見使の制が導入された。

従者の定員 1,000石以上は30名まで、1,500石以上は35名まで、

2,000石以上は40名まで、2,500石以上は45名まで。

※地元の接待 巡見使1人に最低でも30人の御供が付いてくるので、

岡藩のみならず、受け入れる先々の地元の人は応対が

大変だったようです。

※酒利(佐伯市宇目町千束)酒利は(岡藩の)代官所の所在地であり、

巡見使の常宿であった。(宇目町誌)

          日向、豊後の通行に欠かせない地点だったようです。

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延宝九年(1681年)辛酉 久恒公 御年四十一歳

一、六月三日、紅葉山御参詣ニ付、

殿様・若殿様御一同供奉御勤御束帯

一、十二日、右近御評定所へ御呼出シ御調、

十七日、同断、二十三日、御評定所ニ於テ追放仰セ付ラル、

同日、御料理下サレ、路用トシテ歩判百切下サレ、

夕七ツ時 武州板橋マテ送り追放ス、

其段 稲葉美濃守様へ御出御対面、御届仰セ達セラル

※紅葉山御参詣  江戸城紅葉山に、家康以来歴代の将軍の霊廟が

         あったようです。

※歩判(ぶばん) 1分金(1歩判金)いちぶばんきん

 歩判 百切  1分金を100枚か?

※越後騒動 藩政を執っていた首席家老小栗美作と、

これに敵対するお為方の一族重臣と小栗派逆位方の争い。

※余談 将軍綱吉は、前将軍家綱の死の直前、前大老酒井忠清や

高田藩主松平光長が後継将軍に皇族を擁立しようとしたとして、

    2人を快く思っていなかったようで、越後藩の騒動を再判定した

ようです。高田藩が改易になったのもその為だと言われています。

※余談 逆位方 小栗美作とその子大六は切腹、その親族と一派の者は

        流罪、大名家へお預け、追放。

お為方 首謀者は八丈島、三宅島に島流し、その他も大名家

お預け。

※余談 貞享4年(1687年)、光長は老齢および本人に罪はないとして、

綱国とともに赦される。

※余談 小栗派旧臣らによる御家再興運動の結果、徳川光圀の周旋によって

元禄11年(1698年)津山藩として松平家を再興した。

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延宝九年(1681年)辛酉 久恒公 御年四十一歳

一、二十九日、松平越後守光長様御家来 野本右近 御預ケ、

御評定所ニ於テ御渡シ、

依テ 中川覚左衛門重宗 小屋居間ヲ囲ヒ差置ル、

時服二・単物一・麻上下二具、御使者ヲ以遣ハサル、

二汁五菜ノ料理下サル、

羽織・袷等着用ノ為メトテ遣ハサル、

番人用聞ノ者且諸道具等悉ク附置ル、

同日右近儀、公儀へノ書附ノ儀御達コレアリ、

御当家御右筆小島三郎助御前ニテ誓紙仰セ付ラレ、

右近存通書附調へ、

翌朝 稲葉美濃守正則棟へ御持参差出サル

※松平越後守光長 越後高田藩の藩主。松平忠直(一伯)の長男

※越後騒動  光長の嫡子(一人息子)が死去したため、

世継ぎの縁組決定を廻って重臣たちが争いを起こす。

世継ぎは光長の甥・綱国に決まったが、

藩政を執っていた首席家老小栗美作が我が子(光長の甥)を

世継ぎにしようと画策し、藩政治を私物化していると、

他の重臣が結束してお為方を結成。小栗派を、逆位方と呼び

     小栗の悪政を訴え小栗の隠居を要求して騒動が広がる。

※家綱のとき幕府が和解の裁定を下し一応おさまった。

5代将軍綱吉がこの件につき審議をし直し、高田藩は改易になった。

       光長は伊予松山藩に、縁組をした世継ぎ綱国は福山藩に

       預けられた。

※藩士たちの処分 二手に分れて争った家臣たちも、大量に処分された

       ようです。

※その一人、野本右近を処分決定まで、岡藩江戸屋敷に預かる。

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延宝九年(1681年)辛酉 久恒公 御年四十一歳

一、正月二日、年始御献上例ノ如シ御使者姓名詳ナラス

一、三月三日、御家中物成、向後四ツ平均ニ仰セ出サレ、

馬飼料知行ニ御直シ下シ置ル

一、十日、岡城御発駕、十二日、三佐御乗船、

二十一日、大坂御着、二十三日、伏見御着

一、十四日、御次女於ハル様江戸ニ於テ御逝去、御年二歳、

貝塚青松寺ニ葬り奉ル、

御法号幻幽宗夢童女

御母ハ侍女父姓名詳ナラス

延宝八年庚申月日詳ナラス御誕生

一、四月七日、江戸御着

一、十三日、御参勤御礼、御献上例ノ如シ

一、五月八日、上野御参詣供奉御勤 御衣冠此以前詳ナラス

一、同日、  同所厳有院様御仏殿へ石灯篭両基御献上

※御家中物成 物成りとは年貢のことですが、

御家中物成は、家臣の俸禄のことと思われます。

※向後四ツ平均ニ・・。 家臣の俸禄を4割支給にする。

※馬飼料  大豆を1日1升下さる。

※御家中内々勝手が逼迫しているので、迷惑と思うだろうが、

 幕府への御勤めの為で是非もない。と久恒公の御意が伝えられています。

※厳有院様 4代将軍家綱

 

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延宝八年(1680年)庚申 久恒公 御年四十歳

一、(閏8月)二十八日、岡城西御丸新御屋敷 

裏御門御普請成就

一、九月五日、若殿様へ御家料壱万石進セラル

一、十四日、江戸御発駕、二十五日、伏見御着、

二十六日、大坂御着、 二十九日、御乗船

一、十月十五日、御船芸州蒲刈ニテ天気悪シク、

十日ヨリ御逗留ノ処、御持病御眩睴発ラセラレ、

御渡海ナサレ難ク、今日、同所仁方村ヨリ御上陸、

二十六日、御帰城

一、十一月五日、徳松様西御丸へ入セラル、御祝儀、御使者差立ラル

一、月日詳ナラス 江戸二於テ御女子御誕生、

御名ハルト称シ奉ル、

御母ハ侍女父姓詳ナラス

一、月日詳ナラス 今山組荒平堤築添出来

※若殿様  久恒公嫡男主膳 → 久通公

※芸州蒲刈 広島県呉市蒲刈町(芸予諸島の上蒲刈島)

※眩睴(げんこん) めまい、目がくらむこと

※徳松様  綱吉の長男。早く亡くなる。

※今山組荒平堤 豊後大野市緒方町上犬塚に荒平の池があります。

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