2017年05月
久清公 異国船来朝、他藩の変事に備えた対応を指示

承応四年(1655年)乙未 久清公 御年四十一歳
一、正月十日、御目付津田平左衛門正方様・
加藤平内様御帰府、
今市御通行ニ付、
御馳走トシテ中川平右衛門長伸 今市二罷越ス
一、二月十四日、御自筆ヲ以テ仰セ出サル
一、自然異国船来朝、或者近国不慮之儀出来、
隣国より人数指遣儀有之刻者、
高力摂津守殿・日根野織部正殿・
長崎御奉行衆・肥後御目附衆へ相窺、
中川平右衛門・中川藤兵衛
右二組、鉄炮頭五組鉄炮百挺、
のほり五本同奉行下村弾右衛門可参候
※御目付・・。 肥後藩主が年若く、幕府要人等が後見していた。
※久清公が御自筆ヲ以テ、自然異国船来朝・・。
いつか、異国船が来た場合や
近くの藩で思いがけないことが起こった場合の指示。
※高力摂津守殿・日根野織部正殿・長崎御奉行衆・肥後御目附衆へ
御伺いをしなさい。
その後の行動を示している。
※高力摂津守 高力摂津守忠房 寛永15年2月島原の乱鎮圧後、
寛永15年4月、幕府は浜松城主高力忠房を島原城に配置換え
島原の戦後の経営にあたらせた。
高力忠房は九州の諸藩、幕府直轄の地から百姓を天草、島原に
送らせ農地の復興に努めた。
※日根野織部正 豊後府内藩主日根野織部正吉明
長崎のキリシタン取締をした。
久清公の岡藩領の視察 今、回っても大変!!

承応三年(1655年)甲午 久清公 御年四十歳
一、九月四日、御郡廻トシテ御発駕、十三日、御帰城
御泊
宇田枝 酒利 重岡 木浦 `
倉木 陽目 中角 湯原二日
一、十一月日詳ナラス 中川玄蕃長房隠居後モ御役儀
並二内外書通、其以前ノ通相勤ル処、
御免成下サル
一、十二月日詳ナラス 御家督御祝儀トシテ、
在中一箇組ニ銀一枚ツヽ成下サル
一、年月日詳ナラス 願成院ニ護摩堂一宇御建立
※久清公の御郡廻・・。10日間で8ケ所。相当きつい行程ですね。
御発駕と記されてはいますが、大部分、馬に乗ったのでは?
地図で辿ってみると、右回りで回っていますが、陽目と中角は
逆になっています。
最後の、湯原は、長湯町だと思われます。
久清公のみならず、御供の家来もここで2日間
ゆったりと湯につかったことでしょう。
※中川玄蕃長房 家老 田近家 4千石
※御家督御祝儀 久清公はこの年、承応3年5月26日
家督相続後、初めて岡城に入った。
※願成院 元和5年建立か
縁組 個人より家と家の縁組 上司の意向が

承応三年(1655年)甲午 久清公 御年四十歳
一、(7月)十日、左ノ通仰セ出サル
一、家老中縁組之儀、此方より内証指図いたし、
其上ヲ以可申付候間、内証内契約無用之事
一、家中縁組之事、面々心次第ニ内契約いたし、
奉行ニ申達、窺可申事
右之旨番頭より相触可申事
一、物頭 物奉行相果候ハゝ、
与力幷組頭役・物奉行役差上ヶ可申事
右之旨、平右衛門方より触可申事
※家老の縁組 家老と云っても、中川家と血のつながりがあり、
一族の長である、藩主の意向が大事でしょう。
※他の家臣の縁組 家と家の間をつなぐ縁組ですから、
互いの上司の意向は大事だったでしょう。
※物頭 物奉行相果候ハゝ・・。
それぞれの責任者が困り果てたら・・。
直属の部下が支えなさい。ということでしょうか。
※平右衛門方より・・。中川平右衛門長伸 田近家 4千石
歩奉行とは何を職務にする奉行か

承応三年(1655年)甲午 久清公 御年四十歳
一、歩奉行 柳井角兵衛
与力弐人、外ニ壱人古より
人馬渡方奉行裏判いたし可遣候間、
両郡村々へ依怙贔屓無之様ニ割付、配符ニ判形仕、
近所之村迄中間ニ持セ遣、村次ニ先々へ配セ可申候、
高付村 付之次第、郡奉行相尋可受指図事
右諸奉行面々依怙贔屓毛頭不仕、万事正道ニ裁判可仕者也、
幷音信物曽テ受申間敷候、
但 親子 兄弟、おぢ、おい、めい、むこ、しうと之間ハ
不苦事
承応三年七月五日ニ被仰付候、
右諸奉行之帳壱帳ニいたし、萱野五右衛門ニ被遣候、
諸奉行衆ヘハ銘々ニ御書写被遣候
承応三年七月十日ニ被仰出候趣
※歩奉行 はっきりしませんが、道に関係しているようです。
街道の往来、輸送、運搬の維持管理を担っていた
ように思えます。郡奉行の配下だったようです。
※高付村 固有名でなく、年貢が高く付けられた村と思われます。
田畑の収穫石高に寄って、上村、中村、下村に分れ、
それぞれの村で又、5段階に分けられています。
高付村とは、上村の上位の村を指すのかと思われます。
※音信 今使われている、音信と同じでしょう。
繋がりの近い親類を除き、行き来や手紙のやり取りを
禁止しています。