2017年04月

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慶安五年壬辰 久盛公 御年五十九歳

一、八月日詳ナラス 御定書仰セ出サル

        覚    (その3)

 夫遣之定

一、高百石取、壱ケ月ニ一日ニ五歩ツヽ

  此間之はした高之分、八歩掛ケニ可仕候

一、高弐百石取、壱ケ月ニ一日ニ壱人ツヽ

  右同

一、高五百石取、壱ケ月ニ壱日ニ弐人ツヽ

  右同

一、高千石取、壱ケ月ニ壱日ニ三人ツヽ

  右同

一、高弐千石取、壱ケ月壱日ニ五人ツヽ

  右同

一、高三千石取、壱ケ月壱日ニ七人ツヽ

  右同

一、高四千石取、壱ケ月壱日ニ九人ツヽ

     以上

   慶安五年八月吉日  久盛御印判

一、九月十八日、年号改元

承応元年

一、十二月八日、御目附松田善右衛門様・水野庄左衛門元重様

肥後ヨリ御帰府、今市御通行ニ付、御馳走トシテ

中川左近三種今市ニ相詰ル

一、月日詳ナラス 御召船住吉丸御改造 

御新造ノ年月日詳ナラスト雖トモ、

秀成公御代ナルベシ

※はした高之分  はしたがそれぞれにどの位あったのでしょう。

※中川左近三種  千5百石 家老 戸伏家

※御召船住吉丸  御召船住吉丸の名目、此以前のものに見えず。

されど、豊州御入国の頃より御召船の名なしとは

思はる。

今の如く御船大きになりたるは、元禄6年の秋、

久山公(4代久恒)御代に御造り替の節よりのことなり

と云伝ふ。不染斎随筆

 

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慶安五年壬辰 久盛公 御年五十九歳

一、八月日詳ナラス 御定書仰セ出サル

        覚    (その2)

一、夫遣之儀、別紙ニ書出候事

一、高百石ニ付弐石宛借シ米之儀、

勝手次第ニ本米上納可申事

一、旅ニ而兵粮之事、

催合銀相渡候上者、別ニ渡申間敷事

一、高身之者ニ旅ニ而馬飼之事、

小性頭ハ毎年々々上下ニ候間、相渡可申候、

其外ハ渡申間敷事

一、右之書出しニ者無之候得共、

高百石より百四拾石迄五歩物成大豆遣へく事

一、高百五拾石より三百四拾石迄ハ、

高百石ニ付四歩物成大豆可遣事

一、高三百五拾石より九百石迄ハ、

高百石ニ付三歩物成大豆遣へく事

一、高千石より四千石迄ハ、

高百石ニ付弐歩物成大豆可遣事

     慶安五年八月吉日  久盛御印判

※百石ニ付弐石宛  百石につき2石 

2%のお米上納

※小頭 小姓頭

※・・渡申間敷事 渡し申しまじきこと  給付はしない事

※高身之者  父祖以来勤功あるもの、格別の家筋のもの、

高禄の者故にこれを世間にて高身衆と唱へし由

       高身はこれから後に出来た呼び名とのことです。 

不染斎随筆より 

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慶安五年壬辰 久盛公 御年五十九歳

一、八月日詳ナラス 御定書仰セ出サル

    覚

一、公儀御普請出入之儀、

何も之家中並次第ニ可申付事

一、当地役之者、高百石ニ付八歩懸ケ申付候事

一、品々出銀江戸上方人役之儀、

江戸上方屋敷雇自身之銀、此方より可遣事

一、上下乗船之儀、今迄 定のことく船賃銀可遺事

一、方々道中 荷馬#旅宿賃之儀、

夫銀遣候上者別ニ遣筈ニ而無之事

一、領内中へ役儀ニ遣候時、

五日以後逗留仕候者、一日壱人ニ付銀弐分宛渡可申候、

四日迄之逗留者不渡候事

一、爰許ニ而馬之糠藁之事、

壱ケ月ニ馬壱疋ニ付ぬか弐石四斗、藁拾駄、

何も惣中馬所持仕候者ニ渡可申事

一、高百石より百九拾石迄 馬所持仕侯者ニ、

一日ニ大豆弐升宛 夏冬共ニ渡し可申候、

但、弐百石より上ハ渡し申間敷事

※高百石ニ付八歩懸  歩=分   

      100分の8の負担ということでしょう

※・・屋敷雇自身之銀  自身  岡藩家中の者の家来

※此方より可遣事  此方 藩より 支払って遣わ

※馬之糠藁 糠(ぬか) 藁(わら) 馬の飼料、餌

  ぬか弐石四斗  弐=2

※弐百石より上ハ・・。 2百石が平と管理職の分かれ目?

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慶安五年(1652年)壬辰 久盛公 御年五十九歳

一、二十七日、御目附津田平左衛門様・

柘植右衛門作様肥後ヨリ御帰府、

今市御通行ニ付、

御馳走トシテ中川藤兵衛重治今市ニ相詰ル

一、五月三日、端午御献上御時服

一、十四日、三佐御着、十六日、御帰城

一、日詳ナラス 御在着御礼、御使者差立ラル

御献上御樽御使者姓名詳ナラス

一、六月三日、肥後ヘノ御目附松田善右衛門様・

水野庄左衛門様御下向、

今市御通行ニ付、御馳走トシテ

中川又左衛門直高今市ニ相詰ル

※中川藤兵衛重治   家老2千3百石 古田家

※中川又左衛門直高  家老2千石   田近家

※この時期、慶安3年6月より幕府役人の今市通行が多い訳は

  肥後藩主細川 光尚が慶安2年(1649年)31歳で死去。

長男・六丸(綱利)が6歳と幼かったため幕府目付と

親戚の小笠原忠真(豊前小倉藩主)の監督を受け、

幕府目付が交代で肥後の監督に向かったためです。

  肥後細川藩はこのような状態だったので、改易になっても

おかしくなかったようです。

※肥後細川藩が改易にならなかったのは何故?

 武断政治による大名改易や減封により浪人の激増。

慶安の変(1651年)由井正雪の乱 幕府転覆を狙う?

承応の変(1652年)別木庄左衛門による老中襲撃計画

どちらも、幕府政策の批判と浪人救済を求めたと思われる。

 4代将軍徳川家綱の文治政治への転換

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久盛公の腫物の治療を御年譜で見る

元和2年(1616年)丙辰 御年23歳

一、十二月日詳ナラス 岡城御発駕、御腫物気ニテ伏見御逗留

元和3年(1617年)丁巳 御年二十四歳

一、(3月)十八日、御参勤御礼仰セ上ラルヽノ処、

未夕(いまだ)煩モ然々(しかじか)ナキニ 下りタルト上意アリ

一、四月日詳ナラス 御腫物御再発

一、五月日詳ナラス 京都御着、伯安法眼 御頼ニテ御療治

一、(9月)日詳ナラス 御腫物未夕御平癒コレナキニ付、

伯安法眼 御雇、岡へ御召連レノ儀 御頼ノ処、

其身ハ御断申上、子息 慶徳御供致シ罷下ル

元和4年(1618年)戊午 久盛公 御年二十五歳

一、(1月15日)同日、京都医師 慶徳 御暇下サレ、岡出立

一、(2月18日)、御腫物気 矢張 御同様ニ

一、閏三月日詳ナラス 御当家ノ医師池田伊豆 

御薬差上ケ、追日御平癒

 慶安5年壬辰 久盛公 御年59歳

  一、4月11日 御帰路御船中ヨリ少々御腫気

※不染斎随筆では、外科池田伊豆とあります。

※池田伊豆の事、一伯様接触事件については

2016年10月30日前後のブログ参照

1557年アルメイダは大友宗麟に土地をもらい

府内(大分市)に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた

総合病院を建てた。

1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。ウィキペディア

※キリシタンとの繋がりが深かったと思われる岡藩の藩医に

 西洋医学を学んだと思われる池田伊豆のような人がいても

 不思議ではないでしょう。

※漢方医では治らなかった患部を池田伊豆が切除手術したように思えます。

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