2017年02月

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天正十一年(1583年)癸未 清秀公 御年四十二歳

公 猶(なおもって)敵ヲ追退ケントシ給フ時、

中川淵之助重定(清秀公の)御鎧ノ袖二取付キ、

味方 悉(ことごと)ク討死ス、

(あなたが)雑兵ノ手ニ 御討死モ如何ナリ、

某(それがし・淵之助))爰(ここ)ニテ防戦スヘシ、

疾々(はやはや)本城ニ於テ 心静ニ御自害アルヘシ

ト 云フ、

公 聞給ヒテ、吾 今日ノ戦ヒ 諸人ノ見ル所、

縦(たと)ヒ雑兵ノ手ニ討死ストモ恥ル所ニ非(あら)ス、

一人ニテモ敵ヲ殺スコソ本望ナレトテ、進ミ戦ヒ給フ、

※中川淵之助重定 清秀公の弟

 

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天正十一年(1583年)癸未 清秀公 御年四十二歳

此時 御手ノ者モ次第ニ討死シテ残リ少ナニナリヌレト、

公ハ御精神 壮ンニシテ、益烈シク戦ヒ給フ、

熊田孫七資一ハ精兵ノ射手ナレハ、木戸口ニ立塞カリ、

引詰メ指詰メ射払フニアタ矢ナシ、後ニハ破レテ指ノ肉切レタリ、

既ニ矢種モ尽キ、大薙刀ヲ以テ縦横ニ駈破り討死ス、

熊田兵部資矩モ同ク大薙刀ヲ以テ防キ戦ヒケル処ニ

佐久間玄蕃允ヲ見掛ケ、余マサシト討テ掛ル、

佐久間カ郎等 両人左右ヨリ助ケ来レハ、兵部ソコニテ討死ス、

※敵味方入り混じっての白兵戦になって、弓、鉄砲があっても

 使えなかったでしょう。

※余マサシト・・。ほかのものではない、これこそ本命・・。と

 強調した書き方でしょうか。

 

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天正十一年(1583年)癸未 清秀公 御年四十二歳

(清秀公の)御先手ノ者共心ハ猛ク勇メトモ、

今朝 卯ノ刻ノ始メヨリ午ノ刻下リマテ、入替ル勢モナク、

殊ニ 後口ニハ敵兵本丸卜先手ノ間ニ込入り、火ノ手上り、

余煙真黒ニ引覆フ、雑兵散乱シテ敵味方モ見分難ク、

心ナラス高山力勢卜落行クモアリ、或ハ討死スルモアリテ

散々ニナル、

其内ニ 野尻出助重秀ハ御先手卜本城ノ間ノ敵ヲ突払ヒ、

本城ニ馳入リテ防戦ス、

公裏手ノ敵兵ヲ御自身ノ御槍ニテ毎度追退ケラル、処ニ御先手破レ、

敵ノ大勢四方ヨリ攻詰ル、

※卯ノ刻ノ始メヨリ 午ノ刻下リマテ・・。

御前5時ころから午後1時ころまで・・。

※6時間に及ぶ死闘。

清秀軍は限られた人数で交代も出来ず、本丸周辺に追い込まれてゆく。

※高山勢が撤退する時、盛政軍は道を開き守りの兵を逃し、

砦を攻めやすくするものですが、その流れの中で、

清秀軍の大勢はよく踏みとどまったと思います。

 

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天正十一年(1583年)癸未 御年四十二歳

時ニ高山(右近)使ヲ以テ申送リケルハ、

軍ハ此度ニ限ルヘカラス、一先ツ引退キ、

後日ニ功ヲ立テ給ヘト、

(清秀公の)御答ニ、此節ニ及ヒ引取ルヘキ覚悟ニアラス、

大臆病ノ輩(やから)ニ何ソ与(くみ)スヘキトテ、

御自身裏手ノ敵ヲ突退ケ給フ事、已(すで)ニ七、八度ニ及フ、

然レトモ 敵大勢入替り入替り柵際マテ押詰ル、

此時 高山 終ニ崩レテ己(おのれ)カ砦ヲ棄テ、

木ノ本指シテ落行ケハ、其手ノ者共 散々ニナリテ引テ行ク、

敵コレヲ見テ貝ヲ吹立テ、競ヒ掛リテ詰寄スル、

※清秀公の従弟であり、長年多くの戦を一緒に闘いぬいてきた

 高山右近としては、今回は一度退いて、次回に備えようと

誘ったようです。

 大山砦を引くに引けない、清秀公と家臣一同の意地を

 感じるところです。

※高山右近としては、柴田勢の持久戦の構えを崩したことで、

初期の目的を果たしたように思えます。

 

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大岩山砦の小屋に火を放たれる

天正十一年(1583年)癸未 御年四十二歳

此時 御旗本ヨリ敵ヲ左右ニ挟ミテ、鉄砲ヲ撃立テ追下セハ、

敵勢 余吾ノ湖辺ヘナタレテ、三町計り引退ク、

依テ 皆々息ヲ継ク処ニ、敵 湖辺ヲ廻り、

裏手ヨリ砦ノ根小屋ニ火ヲ掛ケ攻入ラントス、

(清秀)公 御覧シテ、吾ハ裏手ニ向フヘシ、

爰(ここ)ヲ聢ツカト堪タヘヨト御下知アリテ、

御手廻 並ニ弓鉄砲大将一組ツヽ召連レラレ、

本丸ニ御引取リアリ、

※根小屋・・。寝小屋か?

 昨日(18日)の地形図で見ると、本丸跡の下、北側に居所の跡と

 と思われる場所があります。

3月19日、大岩山に陣を敷いてから、4月20日の戦いが

始まるまでのここが生活の場所だったのでしょう。

 

 

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