2017年01月

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 嘉永六年癸丑 久昭公 御年三十四歳

一、三月八日、岡城御発駕

一、四月十一日、江戸御着

※宿帳

嘉永六年(1853年)

同(三月)廿七日前日 御宿割上下五人御出 酒七合出ス

  前晩 御宿割御着有之侯ハ、茨木梅林寺へ知らす

 人足 夜分故 弐人分 弐百文請取事

参一、中川修理大夫様 御泊 中二・下一

西上刻御着 卯上刻御立

   金弐両 下宿中大拂 下宿弐拾五軒 

夕 弐拾八人 朝 弐拾八人 内壱人分拂 旅籠弐百廿文つゝ 

梅林寺 宿西丁くら清へ取 来年よりは其心得 

東丁之内二枚事 懃男三人 女三人 米夕壱斗弐升 朝八升五合

※藤堂家より中川家養子に入った久昭公は、

中川家の太祖中川清秀公の墓参は大事な勤めだったと

思われます。その墓参については次回記載します。

 

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 弘化二年(1845年)乙巳 久昭公 御年二十六歳

一、二月二十九日、岡城御発駕

一、四月三日、江戸御着

※宿帳

弘化二年(1845年)

同(三月)十四日 前日宿割上下〆六人御出 

酒九合出申侯 

前夕 御先觸参候

茨木梅林寺下宿取 

梅林寺 惣中へ御上より南壱片被下 

直様(すぐさま) 伴僧江(へ)遣ス受取

  参一、中川修理大夫様 御泊 中二・下一

金弐両 旅籠三十二人 夕朝共 

下宿中大拂 壱人ニ付百八拾六文 

雇男〆三人 女壱人

※貨幣換算の参考

 金二両    (140,000円)

 百八拾六文   (3,200円)

 百疋     (17,500円)

※本陣の収入

 休泊料、心付、献上品に対する返礼金、祝儀金

 献上品を受けても、本陣へお返しの出費が大変で、

献上品は固くお断りもしたようです。

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 天保十四年(1843年)癸卯 久昭公 御年二十四歳

一、四月二十一日、御病気ニ付、

当四月御参府ナサレ難キ旨御届差出サル

一、五月十日、岡城御発駕、

一、六月十一日、江戸御着

宿帳

天保十三卯六月二日 前々日室津より御定御觸参ル

   茨木村梅林寺江下男ヲ以案内状為持遺候 

ちん銭二百五十文受取

参一、中川修理大夫様 御泊 中弐・下一

金弐両 夕三十人 朝三十人 

梅林寺江南壱片 御酒肴料として壱札候 

梅林寺江案内壱人遣ス 

此返礼ニ銀壱両被下候 

以後ハ此案内人 下拙(自分・私)内寄之者遣ス事

道すじは札場より上り 田中江参ル 

新兵衛とも同道ニ御座候 

宿割役人江酒五合出ス 帳ハ才米重江頼申事 

旅籠百九十文つゝ 下宿中大拂 南一片 

惣人数〆弐百八十六人 男手〆四人 女手〆四人

梅林寺下宿江南一片被遣候ニ付受取 此方より遣ス 

中河原村方より御道中幷ニ御公儀掛り御役人塩山一学様 

右弐宿外ニ御臺所御願申上 鯉一尾つゝ差上被下候 

尤御泊と相知れとも中河原村江知らす様相頼被申侯 

油紙福本陣近ニ三四軒入用之事

※御年譜と宿帳の記載年数が一致しない。

 天保13年は壬寅年。14年が正しいか?

※御年譜の記載は、この頃、儀礼、儀式の贈答関係項目が

 大変多く、御参府に関しては二行のみである。

※椿の本陣の記載は、これまでにない、綿密な記載である。

 藤堂家と云う大藩の支援、久昭公のお祝いの気持ちがあって、

 旅費を豊富に使えたように思える。

 

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 ※久昭公は伊勢藤堂家の和泉守高兌公の次男、藤堂大蔵。

 久教公死去の前の日付(天保11年9月27日)で

急養子を願い出る。

 天保11年12月6日、中川の家督継承を認められる。

久昭を名乗る。

 天保11年12月28日、修理太夫に任ぜられる。

 天保13年4月23日、初テ御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラル

      4月27日、江戸御発駕、

      5月29日、岡城御着

※岡藩の世代交代を紹介して、次回の椿の本陣休泊の

 繋がりを説明しました。

 

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 天保十年(1839年)己亥  久教公 御年四十歳

一、九月二十四日、岡城御発駕、

    二十九日、三佐御乗船、

一、十月十四日、室(津)ヨリ御揚陸、山崎御通行、

    十八日、伏見御着

一、十一月三日、江戸御着

※宿帳

天保十年(1839年)

十月十六日 前夕関札紙 宿割共御出

参一、中川修理大夫様 御泊 中二・下一

金弐両 梅林寺江(へ)〆弐朱被下相渡ス 

下宿中大拂 夕三十三人せん出

はたこ百九十文つゝ 

宿割 酒五合かい申侯 

則 梶又江(へ)送り申候 男手〆四人 女手〆四人

※天保9年7月20日、夜より、岡 暴雨洪水、潰崩等多シ

※天保10年2月29日、御発駕ノ処、御持病ノ御積気、

  其上御眩暈ニ付、御参府 御延引ノ御届差出サル

※5月7日、右御病気 御勝兼ニ付、

御快方次第 御発駕ノ旨 御届差出サル

※二度、参府を延ばした久教公は、心身ともに弱っていた

ように思えます。

 天保10年11月3日、江戸に到着。

翌年、天保11年4月27日には、江戸を離れて岡に向い、

5月25日にやっと岡に帰城しました。

そして、9月28日に岡城で亡くなっています。

 

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