

秀吉の書簡
梅林寺には、本能寺の変が起こった時、
その事態を備中松山に居た秀吉に知らせた中川清秀に対して、
秀吉から6月5日付返答の書状が残されています。
「今、京より罷下候者、慥(たしかに)申候、
上様(信長)幷(ならびに)殿様(信長の長男・信忠)、
何も無御別儀、御きりぬけなされ候、せゝ(膳所)か崎へ、
御のきなされ候内に、福平三(福富平左衛門)三度つきあい、
無比類動(働き)候て、 無何事之由、先以目出度存候」
「いま、京都から帰って来た者が間違いなく言った。
福富平左衛門の働きで、信長様と信忠様は、
膳所(現在の大津市)に逃れられた。福富の功績は比類ない。
信長様、信忠様に何事なく目出度いことである」と
偽の情報が書かれています。
福富平左衛門と親しかった清秀はじめ摂津衆には説得力があったようです。
結果的に彼等は秀吉側に加勢し、これが山崎の戦いの趨勢を動かします。
織田信忠とその家老福富平左衛門はともに、二条御所で討ち死にしています。





