2016年12月

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秀吉の書簡

梅林寺には、本能寺の変が起こった時、

その事態を備中松山に居た秀吉に知らせた中川清秀に対して、

秀吉から6月5日付返答の書状が残されています。

 「今、京より罷下候者、慥(たしかに)申候、

上様(信長)幷(ならびに)殿様(信長の長男・信忠)、

何も無御別儀、御きりぬけなされ候、せゝ(膳所)か崎へ、

御のきなされ候内に、福平三(福富平左衛門)三度つきあい、

無比類動(働き)候て、 無何事之由、先以目出度存候」

「いま、京都から帰って来た者が間違いなく言った。

福富平左衛門の働きで、信長様と信忠様は、

膳所(現在の大津市)に逃れられた。福富の功績は比類ない。

信長様、信忠様に何事なく目出度いことである」と

偽の情報が書かれています。

福富平左衛門と親しかった清秀はじめ摂津衆には説得力があったようです。

結果的に彼等は秀吉側に加勢し、これが山崎の戦いの趨勢を動かします。

織田信忠とその家老福富平左衛門はともに、二条御所で討ち死にしています。

 

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中川清秀公の菩提寺梅林寺

このお寺は安養山清秀院梅林寺と号し、浄土宗知恩院の末寺で

阿弥陀仏を本尊としておまつりしている。

第4世是頓上人の時、城主の中川清秀が帰依し、香華の財資を寄附した。

天正11年(1584)秀吉の軍に従軍した清秀が賎ケ岳で戦死したのを

聞き、是頓上人は賎ケ岳まで行って遺骸を葬り、遺髪を持ち帰って之を

寺に納め堂を建てて供養した。

 慶安3年(1650)の夏に洪水があって梅林寺切れと云われているが、

堤防が破れてお寺の建物がすべて流失した。

承応3年(1654)中興の讃誉上人が後難をさけて、

旧茨木城址にお寺を再建した。それが現在の敷地である。

現存の本堂は文化元年(1804)5月に18世誠誉上人が再建した

ものである。

 寺宝には中川清秀画像、秀吉書翰がある。

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 中河原の道標

この地は、茨木市内を東西に走る西国街道と亀山街道が交差する所です。

町名を中河原町といい、茨木城の城主として名を連ねている「中川清秀」が

生まれたと言われている由緒地です。

中川清秀は中川佐渡守重清公の長男として生まれた。

「中川資料集」によると、天文11年壬寅(1524年)

「城州所詳ならずに於て御誕生、御名虎之助、後清兵衛尉と称し奉る」と

あり、生まれた詳しい場所はわかりませんが、

清秀の菩提寺である梅林寺の蔵書に摂州島下郡中河原とあることから、

この辺りであるとも考えられます。

ここから西国街道を、西へ約1km行くと、江戸時代の参勤交代などの

時に、西国大名が宿泊する宿として有名な「郡山宿本陣(椿の本陣)があります。

 

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    茨 木 城

織田信長や豊臣秀吉に仕えた武将である中川清秀が城主となったお城です。

中川清秀はお城だけではなく、城下町の整備をしました。

中川清秀が亡<なつたあとは、片桐且元らが城主となります。

徳川家康がだした「一国一城令」によって、

元和3年(1617年)、茨木城はとりこわされます。

しかし、城下町はそのまま続き、現在の茨木の町のルーツになっています。

今の茨木小学校のところに城郭の中心があったんだ。

お城の外に、町が広がっていたことがわかるね。

   現在に伝わる茨木城の門

茨木神社東門

茨木神社(茨木市元町)の東門は茨木城につかわれていた

溺手門(裏の門)と伝わっています。

茨木神社の奥にある、天石別分神社(あまのいわとわけじんじや)を

中川清秀は保護していました。

     妙徳寺門

妙徳寺(茨木市片桐町)の門も茨木城につかわれた門と伝わっています。

妙徳は、茨木城主であつた中川清秀の娘の法名です。

慈光院山門

慈光院(じこういん)は奈良県大和郡山市にあるお寺です。

この山門は茨木城の楼門と伝わっています。

このお寺は茨木城主であつた片桐且元の甥によって

建てられました。

400年前のお城の門が現在に伝わっているなんてすごいね!

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強く結びつく中川清秀と高山右近

和田惟政の敗北後、惟政の嫡男の和田惟長軍は、

高山父子(友照と右近)が守る高槻域に兵を入れた。

当初、織田信長も知らない戦いであったが、

高槻城周辺にはキリスト教の教会があり、

戦いの成り行きを見ていたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが信長の元に

ロレンソ了斎を派遣して戦況を報告。

それを知った信長は佐久間信盛を使者として、荒木村重、中川清秀、高山父子軍と

和田惟長軍に高槻域からの撤兵を勧告したが両軍は動かない。

重ねて1571(元亀二)年九月二十四日に明智光秀が1000の兵を率いて調停に出る。

ここに至って荒木村重側はやっと撤兵。

その後、荒木村重が一時は茨木域に入ったが、信長の命で村重は伊丹域に移り、

茨木城には中川清秀が入った。

高山友照と右近の親子と対立していた高槻城の和田惟長は荒木村重と高山親子によって、

高槻城から追放されてしまう。

※「魅力あふれる歴史の“まち’大分県竹田市を知る」参考

※この頃から、茨木、高槻にキリシタンがより広まったようですね。

 

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