2016年12月

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  西国街道郡山宿「椿の本陣」

西国街道は、京都から下関赤間関までの道。

そのうち、京都から西宮までを山崎街道と云ったようです。

山崎街道には、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・

郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・

西宮宿(西宮市)の6つの宿駅があり、郡山は京都から3つ目の宿です。

御成門を入った左に、5色の椿があった事から

別名「椿の本陣」とも呼ばれています。

他の本陣は残っていませんが、国指定史跡・椿の本陣は

御当主が今でも居住しています。

 

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 天保3(1833)年4月20日、第11代岡藩主久教公、

清秀公(浄光院)250囘忌法要を浄信寺で行う。

久教公は、彦根藩主井伊直中の4男。

弟の14男はあの有名な井伊直弼。

天保3年4月19日、木曽路より(長浜市)木之本着。

19日、20日、浄信寺で御法事勤行。

同20日、大岩山墓所に参詣。

21日、木之本発。23日伏見着。

彦根藩の木之本出役・柏原衛門、

木之本詰代官・菅沼十三郎が先払い、案内。

久教公はこれより先、

文政4(1821)年10月朔日 梅林寺に御参詣しています。

 郡山宿「椿の本陣」の記録によりますと、

 文政4年9月晦日 中川修理大夫 泊 とあります。

 翌日、梅林寺に参詣したようです。

御年譜と椿の本陣の記録が合致します。

次回から、椿の本陣の御主人の話等報告します。

 

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  木之本の岡家に伝わる由緒書

清秀賤ヶ嶽に出陣するとき侍医として(岡家の先祖)沖永玄哲を伴隋したり。

玄哲氏は、主人清秀と共に討ち死にせんことを懇請したるに、

清秀は容(かたち)を正て謂はく、卿は医術者にして武人に非ず、

討ち死にすることは無用なり。寧ろ吾等討ち死にせるもの共の遺髪を

山麓木之本村浄信寺に納め吾等の菩提を弔ふことこそ眞の忠・・。

玄哲は、木之本地蔵院(浄信寺)を訪ね、住僧に依頼して中川清秀はじめ

配下の将兵の霊を弔った。

岡の名字は、その後中川氏の子孫が豊後の岡城主となったので、

その城名を苗字としたと岡家の当主は伝えている。 

 

 

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  大岩山砦跡の中川清秀公の墓

大岩山砦で討ち死にした中川瀬兵衛清秀の遺骸を、

地元余呉町の当時の村民12名が手厚く葬ったそうです。

秀吉から指示されたとも言われていますが、

その後、12名の家が中川講をつくり、

代々清秀公と一緒に討ち死にした人々の墓を守り、

400年間、現在に至るまで、御墓の世話をしてきました。

門扉に中川クルスがあります。

 

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 梅林寺是頓上人の働き

天正11年(1583年)419日、柴田勝家の部将・佐久間盛政は

中川清秀が守る大岩山砦を攻撃。

翌20日、清秀の弟淵の助が砦の本丸口で佐久間勢を抑えている間に、

清秀は本丸で「自殺」。御年42歳。

大岩山砦を守っていた清秀に付従っていた家来から、

末々下部に至るまで悉討ち死に。(御年譜記載)

茨木城主中川清秀と親しかった梅林寺第4世是頓上人(ぜとんしょうにん)は、

清秀が戦死したという報を聞くと、自ら戦地大岩山砦に赴いて遺骸と遺髪を

持ち帰り供養したとのことです。

 

 

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