
西国街道は、京都から下関赤間関までの道。
そのうち、京都から西宮までを山崎街道と云ったようです。
山崎街道には、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・
郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・
西宮宿(西宮市)の6つの宿駅があり、郡山は京都から3つ目の宿です。
御成門を入った左に、5色の椿があった事から
別名「椿の本陣」とも呼ばれています。
他の本陣は残っていませんが、国指定史跡・椿の本陣は
御当主が今でも居住しています。

西国街道は、京都から下関赤間関までの道。
そのうち、京都から西宮までを山崎街道と云ったようです。
山崎街道には、山崎宿(大山崎町・島本町)・芥川宿(高槻市)・
郡山宿(茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・
西宮宿(西宮市)の6つの宿駅があり、郡山は京都から3つ目の宿です。
御成門を入った左に、5色の椿があった事から
別名「椿の本陣」とも呼ばれています。
他の本陣は残っていませんが、国指定史跡・椿の本陣は
御当主が今でも居住しています。

清秀公(浄光院)250囘忌法要を浄信寺で行う。
久教公は、彦根藩主井伊直中の4男。
弟の14男はあの有名な井伊直弼。
天保3年4月19日、木曽路より(長浜市)木之本着。
19日、20日、浄信寺で御法事勤行。
同20日、大岩山墓所に参詣。
21日、木之本発。23日伏見着。
彦根藩の木之本出役・柏原衛門、
木之本詰代官・菅沼十三郎が先払い、案内。
久教公はこれより先、
文政4(1821)年10月朔日 梅林寺に御参詣しています。
郡山宿「椿の本陣」の記録によりますと、
文政4年9月晦日 中川修理大夫 泊 とあります。
翌日、梅林寺に参詣したようです。
御年譜と椿の本陣の記録が合致します。
次回から、椿の本陣の御主人の話等報告します。

清秀賤ヶ嶽に出陣するとき侍医として(岡家の先祖)沖永玄哲を伴隋したり。
玄哲氏は、主人清秀と共に討ち死にせんことを懇請したるに、
清秀は容(かたち)を正て謂はく、卿は医術者にして武人に非ず、
討ち死にすることは無用なり。寧ろ吾等討ち死にせるもの共の遺髪を
山麓木之本村浄信寺に納め吾等の菩提を弔ふことこそ眞の忠・・。
玄哲は、木之本地蔵院(浄信寺)を訪ね、住僧に依頼して中川清秀はじめ
配下の将兵の霊を弔った。
岡の名字は、その後中川氏の子孫が豊後の岡城主となったので、
その城名を苗字としたと岡家の当主は伝えている。

大岩山砦で討ち死にした中川瀬兵衛清秀の遺骸を、
地元余呉町の当時の村民12名が手厚く葬ったそうです。
秀吉から指示されたとも言われていますが、
その後、12名の家が中川講をつくり、
代々清秀公と一緒に討ち死にした人々の墓を守り、
400年間、現在に至るまで、御墓の世話をしてきました。
門扉に中川クルスがあります。

天正11年(1583年)4月19日、柴田勝家の部将・佐久間盛政は
中川清秀が守る大岩山砦を攻撃。
翌20日、清秀の弟淵の助が砦の本丸口で佐久間勢を抑えている間に、
清秀は本丸で「自殺」。御年42歳。
大岩山砦を守っていた清秀に付従っていた家来から、
末々下部に至るまで悉討ち死に。(御年譜記載)
茨木城主中川清秀と親しかった梅林寺第4世是頓上人(ぜとんしょうにん)は、
清秀が戦死したという報を聞くと、自ら戦地大岩山砦に赴いて遺骸と遺髪を
持ち帰り供養したとのことです。