2016年11月

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 寛永十四(1637)年丁丑 久盛公 御年四十四歳

一、十二月朔日、久住口張番トシテ、

鉄砲頭安威儀太夫元勝相詰ル

一、五日、安威儀太夫帰ル、代リトシテ木村孫十郎相詰ル

一、日詳ナラス 若殿様御帰城

一、六日、島原・天草へ御越シノ上使衆へ、

若殿様ヨリ御使者安威儀太夫元勝・上島源太夫正友差遣サル

一、十三日、島原・天草へ老職共出張ノ手当申合ス

一、十四日、仁田水口張番 中川勘解由帰ル

一、十五日、安威儀太夫元勝 島原ヨリ帰り、

一揆共 原ノ古城へ篭城ノ様子言上ス

上島源大夫モ儀太夫一同ニ帰リシナラン、然レトモ古記残闕詳ナラス

※若殿様御帰城

 若殿久清公が久盛公より先に岡城に帰って来た。

 久盛公も幕府の許可がないと江戸を離れられない。

 この間の岡藩の指示は久清公の名前で行われている。

※老職共出張ノ手当申合ス

 いざとなったら出陣の用意のみならず、

 御使い番の支援体制、上使への陣中見舞い、

 情報収集、岡藩内の堅め等大変だったでしょう。

 

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 寛永十四(1637)年丁丑 久盛公 御年四十四歳

 御年譜附録

 右之外大岩市之丞・家原又左衛門・横田左平太被差遣也

今考 御附使者ノコト、明和集録ハ誤アリ、然レトモ古記外ニナシ、

  故二此ニ附録ス、今又 島原陣中ノ書簡#諸士家譜等参考シ、

  改記ス、左ノ如シ

   板倉内膳正様へ

        松野三郎左衛門

   板倉主水様へ

        柘植数馬正月十七日島原出立

後御附使者未審

   石谷十蔵様へ

        庄ノ五郎左衛門

   松平甚三郎様へ

        池田亀右衛門 150石 先手物頭

   林丹波守様へ

        大岩市之丞、正月十七八日頃、

島原出立後

家原又左衛門御附使者相勤ル歟、未審

   牧野伝蔵様へ

        塩山権左衛門

   榊原飛弾守様へ

        中川勘解由

   松平伊豆守様へ

        下石勘右衛門 300石 鉄炮足軽20人 

                   外に小頭 2人

   戸田左門様へ

        横田左平太

※御上使の御附使者という名前の岡藩からの支援軍 

 それぞれの岡藩武将名の下に、少なくとも50名以上はは従っていた

のではないでしょうか。

※岡藩武将名も表記にあるように、決め手を欠くようですが、

 附録の記事をここに載せました。

 

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 寛永十四(1637)年丁丑 久盛公 御年四十四歳

一、(11月22日)同日、

島原ヘノ上使 板倉内膳正重昌様・

石谷十蔵貞清様御一同御下向ノ処、

府内へ御着岸ノ事モアルヘキカト、

中川玄蕃長房三佐へ相越シ、

且又 萩原御目附 川崎丹波様・佐々権兵衛様へ

御見舞ノ御使者相勤ム

一、二十六日、今市口 張番木村孫十郎帰ル、

代リトシテ横田左平太相詰ム

一、(11月)二十八日、御上使へ御附使者トシテ、

柘植数馬・松野三郎左衛門島原へ赴ク、

三郎左衛門ハ内膳正様ニ附キ、

数馬ハ主水(内膳正様ノ御嫡子)様ニ附ク

※御上使へ御附使者・・。

 岡藩から上使板倉重昌に久盛公名代の御附使者として、

連絡係の名目になっていますが、実質は久盛公から下知された

板倉重昌の指揮下に入る戦闘要員のようです。

岡藩の軍勢が島原鎮圧軍に召集されなかった為の、

岡藩の苦肉の策でしょう。

※柘植数馬・松野三郎左衛門2人の記録

柘植数馬 320石 与力20人 (入国時)

岡入国以前からの家臣 御先手鉄砲頭

松野三郎左衛門 470石

※基準として50石に1人の自分の家来を持っていたでしょうが、

 岡藩から特別に人数を付けられたと思います。

※主水(内膳正様ノ御嫡子)様に付く・・。

 秀成公8番目の子・中川主水は既に死亡。理解不能。

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 島原の乱 幕府軍 攻撃失敗が重なり 総大将戦死

一揆の知らせを受けた幕府から一揆鎮圧の指揮官

上使板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣。

板倉重昌に率いられた九州諸藩、佐賀藩鍋島氏、

筑後柳川藩立花氏、久留米藩有馬氏、

島原藩主松倉勝家からなる34千の軍勢が原城を包囲。

再三攻め寄せ、1210日、20日に総攻撃を行うがその度に失敗。

その事を重く見た幕府は一揆の勢力に対応して2人目の上使として

老中・松平信綱、副将格として戸田氏鉄らを派遣決定。

焦った板倉重昌は寛永151638)年11日に松平信綱到着前に乱を

平定しようと再度総攻撃を行うが強引な突撃であり、

各藩との連携不足もあって都合4,000人ともいわれる損害を出し、

総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死し、攻撃は失敗に終る。

この報せを受けて幕府は110日、増援として水野勝成と

小笠原忠真に出陣を命じる。

余談 水野日向守勝成

加藤清正の正室、徳川家康養女の清浄院は、勝成の妹。

加藤家断絶の時に熊本城受け取りの役目を勤め、

清浄院を福山に引き取った。

「旗本奴」として知られた旗本の水野成之(十郎左衛門)は

勝成の孫である。

 

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 島原の乱 寛永14(1637)年 概要 御年譜を理解する為に

キリシタン大名である有馬晴信の所領であった島原半島に、

松倉重政が元和2(1616)年に入封。

当初のキリシタンに寛大な政策を、将軍家光に指弾され、

キリシタンの徹底的な取り締まりと弾圧を強化、

二代勝家も重政以上のキリシタンの弾圧と農民に重税を課した。

それらが一因となり寛永14(1637)1025日島原の乱が勃発。

島原藩の兵は鎮圧に出たが、勢いに乗る一揆勢は島原城下の町家や

寺社、鉄砲町等が焼き払った。

数日後に、同じキリシタン大名小西行長の所領であった、

寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民も、

百姓の酷使、過重な年貢負担に一揆蜂起。

島原の一揆勢は、島原城を攻撃。

天草勢は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃。

どちらも落城させることは出来なかった。

そこで、両一揆勢はすでに廃城になっていた原城に籠城する。

 

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