2016年11月

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 寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 御年四十五歳

一、(1月)十二日、

原ノ城 去ル元日 総攻ノ注進コレアルニ付、

御在所ヘノ御暇下サレ、

御諚次第、彼地へ出陣致スヘキ旨仰セ蒙ラル

一、十三日、横田・下石・家原・熊田ノ三士島原へ参着、

御役人中へ御書並ニ御進物差上ル

一、日詳ナラス 江戸御発駕

※原城の総攻撃が失敗したことが、江戸に伝えられ、

 やっと、久盛公は岡に帰ることが許されます。

 命令があったら島原に出陣するようにとのこと、

島原出陣は前々から幕府に要請していたことです。

※幕府役人に対して岡藩は非常に気を使っています。

 寛永14年12月29日、上使小倉御着ニ付、中川玄蕃長房・

中川勘解由景吉 御使者相勤ム、御進物ハ御受ナシ・・。

小倉まで行っての御出迎え、御進物。

島原に到着したら、又御進物。

※この時期だけは、何故か江戸出発、岡帰城の日が不明です。

 

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 寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 御年四十五歳

一、九日、老職ヨリ熊本老職へ、

山城守儀 島原ノ上使へ使者差遣シ、

  出陣ノ問合セ致シ候、

其返事次第ニテ、其御領内 泊々ノ兵粮米・

  馬ノ飼大豆等 替ハセノ儀並ニ渡海船ノ儀共 相頼ノ旨申遣ス、

且又 島原ノ様子 注進ノ為メニ、坂梨・大津・川尻三箇所ニ

飛脚二人ツゝ、差置度旨モ掛合ニ及フ

※山城守 久清公 寛永12年山城守に任ぜられる

 久清公から松平伊豆守信綱へ島原に出陣の許可を求めたようです。

 久清公はこの年24歳になっていますから、出陣しても

 おかしくない年齢です。

※肥後熊本細川藩の老職に御願いしたのは、

① 松平伊豆守の返事次第では、出陣するので、

肥後藩の兵粮、馬の飼料等を使わせてほしい。

あとで、使った分は御返ししますから。という事でしょう。

 物資輸送を後に出来ると、迅速な軍事行動がとれますから。

 ② 川尻港から島原まで部隊を輸送してほしい。

 川尻港は緑川の河口港で明治初年まで繁盛していたようで、

 土蔵造りの商家がまだ残っています。

 ③ 通信網の整備。

 川尻は、島原の情報が一番先に届くところ。

 大津、坂梨ともに肥後街道の宿場町。

 

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寛永十五(1638)年戌寅 久盛公 御年四十五歳

一、(1月)五日、近々松平伊豆守信綱様・戸田左門氏鉄様

島原表へ御到着ニ付、

御附使者トシテ横田左平大重秋 下石勘右衛門頼豊・

家原又左衛門差遣ハサル、

勘右衛門ハ伊豆守様ニ附キ、左平太ハ左門様ニ附ク

又左衛門ハ何ノ手ニ附キシヤ詳ナラス

熊田弥五左衛門資英モ御使者トシテ遣サル

※不染斎随筆

御先手の鉄炮頭を古き云い伝へに9人衆と唱えし由。

宗鑑(秀成)公の御代、豊州御打入の頃の9人衆と云うは、

菅大学、横田久左衛門、中川頼母、中川勘解由、安威儀大夫、

柘植数馬、小島三郎衛門、木村右京、池田雅楽助、右9人にて、

20人1組づつ預かりし也。

※ 横田左平大重秋・横田久(九)左衛門660石の子孫か

※ 下石勘右衛門頼豊

 寛永15年、宗安(久盛)公御代、

筑前 島原陣の時、下石勘右衛門頼豊組の足軽、

彼地にて城攻めの節用いたりし番指物、今も其組に伝来してあるを

見るに、地へ練絹にて、長5尺2寸5分、中1尺2寸7分ありて、

是にも下の白餅には其の手の足軽大将、下石勘右衛門が家の定紋、

桔梗の花を墨絵にかきてあり・・。

※ 家原又左衛門・

豊州御打入(岡に入国)の頃、家原仁左衛門300石と

あります。その子孫か。

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 寛永十五(1638)年戌寅 御年四十五歳

一、正月元日、原城総攻アリ、上使板倉内膳正重昌様御討死、

御附使者松野三郎左衛門慶之 塀下ニ進ミ稠ク相働キ、

鉄砲ニ中り即死ス、

林丹波守様手ニテ大岩市之丞家信モ相働キ、手庇ヲ負フ、

柘植数馬 塀ヲ乗り城ニ入ントス、敵石ニテ撃落ス、起直り、

又 乗上ル所ニ白熊ノ指物ヲ 敵塀ノ上ヨリ抜取ル、

数馬透サス城中ニ入リ、終ニ其指物ヲ取返ス、

子息平九郎ハ槍ヲ取テ塀ヲ乗ル処ニ、城中ヨリ二、三人進ミ出テ、

槍ヲ奪ヒ取ントス、互ニ引合内ニ敵 槍ヲ数本突掛ケ庇ヲ蒙ル、

浅手ナレハ敵ヲ追払ヒ、其場ヲ引取ル、

池田亀右衛門政房モ相働キ、甚三郎様手ヲ負セラル、

故、御傍マテ往キ、御様子相伺ヒ、其ヨリ塀際ニ詰寄セ、

与力ノ者へ稠ク鉄砲ヲ撃セ相働ク、与力ノ者能ク働キ、

討死手負アリ

※稠ク・まんべんなく

※板倉内膳正重昌は決死の覚悟をして前線に出たようで、

 御年譜附録では、板倉様鉄砲当り、則当時に御果被成候・・。

 とあります。

※板倉の御附使者松野三郎左衛門慶之も、岡藩の面目が

かかっていますから覚悟の随従だったのでしょう。

 

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 寛永十四(1637)年丁丑 久盛公 御年四十四歳

一、(12月15日)同日、今度島原へ上使トシテ、

松平伊豆守信綱様・戸田左門氏鉄様御下向ニ付、

若殿様ヨリ中川玄蕃長房ヲ小倉へ差越サル

一、十六日、同所へ御使者トシテ、中川勘解由景吉 御進物持参ス

一、日詳ナラス 尚又 上島源太夫正友モ差遣サル

一、十八日、池田亀右衛門・庄五郎右衛門、

御附使者トシテ島原へ赴ク、

五郎右衛門ハ石谷十蔵様ニ附キ、

亀右衛門ハ松平甚三郎様ニ附ク

一、二十九日、上使小倉御着ニ付、中川玄蕃長房・中川勘解由景吉

  御使者相勤ム、御進物ハ御受ナシ

一、晦日、今市口張番横田左平太、久住口張番木村孫十郎帰ル

※老中松平伊豆守信綱

 江戸初期の行政官としても有名ですね。知恵伊豆と云われた人です。

 事件の重大さを再検討した新人事です。

※総指揮官板倉内膳正重昌は西日本の大名からすると格下と

思われていたようで、采配、指揮に影響したようです。

 新総指揮官が来るという事で、板倉重昌は自分の命を懸けた

最後の戦いに出ます。

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