2016年10月

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  寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

一、(5月)二十四日、公方様御上洛ニ付、

御使者中川玄蕃長房へ仰セ付ラレ、直二府内ヨリ出立、

公方様京都御立マテハ在京致シ、御進物差上 御用等承り、

若シ京都相変ノ儀モコレアラハ、府内へ度々注進敦スヘキ旨仰セ付ラル

一、六月二十六日、公方様へ府内ノ麻地酒御献上ニ付、

府内城ヨリ御書ヲ以テ、在京ノ中川玄蕃長房へ委細仰セ遣ハサル

一、七月十一日、公方様京都御着

一、閏七月朔日、今度 府内城 日根野織部正吉明様御拝領ニ付、

御引渡シァルヘキ旨御奉書

      以上

   一筆令啓候、府内之城日根野織部正被

   仰付候、依之為御目附庄田小左衛門被遣使、織部

   参着次第、城中可被相渡侯、然者采女上知行

   弐万石、織部正ニ被下候、可被渡之候、将又武具之

   事、別紙目録之通是又被下候、可被得其意候、

   委細小左衛門可為演説侯、恐々謹言

        閏七月朔日   酒井讃岐守忠勝花押

                土井大炊頭利勝花押

        中川内膳正殿

※麻地酒御献上・・。 

麻地酒は全国的にも知られていた、歴史のある酒だったようです。

日出のある寺の小坊主が甘酒をこっそり飲んで、残りを壺に入れて

麻畑に埋めて隠していたら、翌年、素晴らしい味のお酒になっていた。

 という話が日出に残っているようです。 

 ※この余談の続き、次回紹介。

※日根野織部正吉明・下野壬生12000石藩主。  

 大坂の陣では徳川方に従い功を挙げた。

その後、日光東照宮の造営など江戸幕府のために尽力した。

それらの忠勤が認められて豊後府内2万石に加増移封された。

初瀬井路の開削などにより現在でも地域住民により毎年顕彰されている。

(初瀬井路、現在の大分県由布市庄内町大字櫟木より大分市東院まで

の間、16kmが開削され「初瀬川」と呼ばれている。(ウィキペディア)

 

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  寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

一、(3月)十三日朝、三佐御着

一、同日、小笠原壱岐守忠知様・水野河内守守信様へ

諸事仰セ合サレトシテ、

府内へ御使者中川玄蕃長房遣ハサレ、

一伯様御番等ノ儀 承り、三佐二帰ル

一、十六日、府内城御請取り相済ミ、直ニ御城番、

依テ御制札其場所々々ニ建置ル

一、同日、中川玄蕃長房萩原ニ相越シ、

一伯様御番竹中様衆ヨリ受取ル、御番ノ面々

           佐野九兵衛宗正

           名倉長左衛門

           柳井忠右衛門重利

一、五月二十日、今度公方様御上洛二付、熊ノ泥障五掛御献上アリ

  依テ御内書

   就今度上洛之儀、熊之泥障五懸到来、入念

   之段、欣思召候、尚酒井雅楽頭可申候也

         五月廿日 御黒印家光公

         中川内膳正とのへ

一、同日、府内ニ於テ安威儀太夫元勝ニ一伯様御番仰セ付ラル

※一伯様・・。本音を言うと、又、預かるのかと思ったでしょう。

 松平 忠直・越前75万石藩主。将軍家光の従弟。乱行を理由に府内に流された。

 大坂夏の陣で真田幸村を討ち取った功績がある。

 初めは東大分の萩原(岡藩領)に、海に近いからと次に津守(大分滝尾)に移された。

 岡藩の外科医池田伊豆が一伯様の治療に関わり、その後、事件を起こします。

※一伯公特別展示のご紹介

大分市歴史資料館(大分市国分)

12月2日(金)〜29年2月26日(日)

※熊ノ泥障・・。熊の皮の泥除け。

 馬を走らせたときに、騎手の両足に泥がかからないようにする物。

 馬の両わき腹に下げて泥除けにしたようです。

 

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   寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

一、(2月)二十四日、江戸御発駕

一、三月五日、大坂御着、八日、御出船

一、十日朝、去月二十二日江戸ヨリノ御書、岡ニ達ス、

府内御城受取リ仰セ蒙ラルゝニ付、御急キニテ御下向、

御着城ノ翌日、府内へ御出馬ナサルヘク、此節ハ御半役二付、

其心得ニテ、油断ナク用意致スヘキ旨仰セ下サル、

依テ御家中へ申渡、手当致スノ処、

夕方 蓑崎ヨリ御一左右到来アリ、

十二日マテニ御人数三佐へ押出スニ相究ル

一、十一日、府内発向ノ御人数、一番手ヨリ追々出立

一、十二日、御備残ラス三佐着御備ノ人数 此余詳ナラス

      老職     中川玄蕃長房

          嫡子 中川市正長伸

      同      中川清六資弘

      同      中川壱岐重治

      小姓頭    古沢将監中則

      番手鉄砲頭  安威儀太夫元勝

      同      横田左平太重秋

      同      柘植数馬

      同      下石勘右衛門頼豊

      同      木村孫十郎

      同      中川勘解由景吉

      同      中川頼母

      御使番    渡辺左太夫

      同      柳原太郎兵衛

      同      土屋弥兵衛   以下略

※蓑崎・・。豊後蓑崎・杵築市住吉浜と思われる。

      豊後の天橋立、豊後蓑崎と云われていた。

※御一左右・・。殿を中央に左右に居並ぶ重臣。

※三佐が前線基地になっています。

 竹田から犬飼に、そこから大野川を下り三佐に出る。

 このコースが人、物を早く楽に運べたようです。

 その為に、犬飼の港が整備され、現在もJR犬飼駅の側に

竹田から来る細い道と大野川川岸に港の跡が残っています。

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 寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

一、二月二十二日、府内城主竹中采女正重次様御改易ニ付、

御城受取り、且御城番仰セ蒙ラル

公儀ヨリノ御條目  (その2)

候々

  一、釆女家財之儀相改、帳ニのせ可然所ニ入置、

何も立合、封を可付置事

  一、采女家中之者之儀、其身心次第何方へも、

    早々引払候様可申付事

  一、采女・筑後知行之儀、壱岐守と内膳正と立合相改、

先代官申付、当所務納方前迄仕置可申付事、

附、竹木一切伐採へからさる事

  一、公事之儀、さしあたる事ハ可申付、

前々より取むすひ候儀ハ、承間敷事

  右候々依仰執達如件

  寛永十一年二月廿二日  伊豆守

              讃岐守

              大炊頭

              雅楽頭

       小笠原壱岐守殿

       中川内膳正殿

       水野河内守殿

※またまた、一泊殿の御世話をすることになりました。

※(竹中)釆女家財之儀相改・・。

 この條に、竹中家改易の原因が見て取れます。

 不正蓄財をしたと見られていたので、

 家財を帳面に載せ、しっかりした所に保管して、

 同役が立会い封印すること。

※これでは、竹中家の家財を1つとしても、勝手に持ち出しは

出来ないでしょう。

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寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

一、二月二十二日、府内城主竹中采女正重次様御改易ニ付、

御城受取り、且御城番仰セ蒙ラル

     御相役    小笠原壱岐守忠知様

            水野河内守 守信様

       御目附  朝倉仁左衛門在重様

            大久保甚右衛門忠直様

   公儀ヨリノ御條目(その1)

     候々

  一、府内城中之儀、小笠原壱岐守・中川内膳正・

    水野河内守 幷 御目附衆以相談受取之、

    内膳正へ相渡、御番可申付事

  一、一伯殿御番之儀、此跡采女仕来候如く、

内膳正可申付事

  一、両人之御目附衆今迄之処二有之而、一伯殿見廻、

其外万事如此以前、入念可申付専

  一、府内町中仕置、内膳正可申付事

  一、侍屋敷之儀、内膳正へわり渡し、若余り侯者、

    はしゝゝの所ハ大〆をいたし、

其むよりゝゝの町人ニ番可申付事

※竹中采女正重次 府内藩主、

寛永6年(1629年)727日より長崎奉行

 キリシタンを殉教や棄教に追い込んだ、穴吊りなど

拷問が考案され多くのキリシタンを弾圧。

踏絵を初めて雲仙で行った記録、寛永8年(1631年)。

朱印を勝手に発行、密貿易、唐人の貨物を着服、私的横領などで

長崎代官などから告発され、調べで有罪になる。後、切腹。

※竹田にあるサンチャゴの鐘が、この時府内城から運ばれて来た

 のではないかと云う説があります。

 私は否定的です。

城受取、城番の相役が2人、目付がいて、竹中家は不正蓄財をしている

と目されていて、公儀よりの條々を守らねばならない中川家には

そんな余裕なかったと思います。

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