2016年10月

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寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

然ルニ伊豆 如何心得違ケルカ、

一伯様御内 大山五左衛門・牧五兵衛方へ、

右病人ノ儀ニ付書状遣ハシ、両人ヨリモ返書コレアル旨、

一伯様 御聴 御驚ナサレ、先達テ療治御頼ノ時卜違ヒ、

当時ハ日根野様御受持ノコトナレハ、

伊豆へ通路ノ儀 公儀ニ対セラレ相済難キ由ニテ、

右取次ノ者 搦メ置レ、其旨 織部正様並二両御目附へ御届ナサル、

是ニ依テ 右ノ御方々御対談ニテ、大山・牧両人日根野様ヨリ召篭ラレ、

今日 右御三人ヨリ御使者ヲ以テ御当家へ仰セ越サレ、

早速伊豆召篭ラル

一、二十日、伊豆儀二付、府内へ中川玄蕃長房差遣ハサレ、

日根野様並二両御目附へ御掛合、御書遣ハサル

※一泊様御付きの女性の腫物治療と池田伊豆のこと

①治療後の様子を聞く手紙を大山、牧の両氏に出したこと。

 ②治療後の経過を池田伊豆に手紙で知らせたこと。

 ③一泊様の対応受持ちは日根野織部正になっていること。

 ④一伯様監視の2人の目附の目を盗んで手紙のやり取りをしたこと。

 ⑤一伯様は手紙のやり取りを知らなかったこと。

 ⑥手紙の取次をした者がいたこと。

※まとめてみると、池田伊豆の「如何なる心得違いか」ですべてを

 納めていますが、不自然な点がいくつかあります。

 ①池田伊豆が一方的に手紙を出しても、厳重な監視下にある屋敷内に

  手紙が届くはずがない。

 ②宛先人も書けない。③差出人も書けない。

 ④竹田から手紙を運ぶ者の人選。

 ⑤どのようにして⑥誰に渡すか、など。

※池田伊豆の「如何なる心得違いか」では済まされないことを

 感じます。

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 寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

一、八月日詳ナラス 公方様去ル三日大坂城ニ渡御、

五日、京都へ還御ニ付、中川玄番長房 岡二帰ル

一、十八日、御当家ノ医師池田伊豆召篭ラル、

其故ハ 先達テ一伯様御番此方様御受持ノ砌(みぎり)、

彼方御召仕ノ女中腫物相煩フニ依テ、療治御頼ナサレ度旨ニ付、

御目附大久保甚左衛門忠直様・朝倉仁左衛門在室様へ御相談ニテ、

伊豆へ療治仰セ付ラレシ処、

日根野様御入部ニテ右御番御引渡シニ相成、

其後ハ一伯様衆へ通路一切無用ノ旨、堅ク仰セ出サル、

然ルニ伊豆如何心得違ケルカ、

一伯様御内大山五左衛門・牧五兵衛方へ、

右病人ノ儀ニ付書状遣ハシ、両人ヨリモ返書コレアル旨、

                     以下次回

※此方様御受持ノ砌(みぎり)

 中川久盛公が一伯様の受持ちだった時

※彼方御召仕ノ女中

 一伯様の御召で仕えていた女性

 この女性は、一伯様にとっては大事な女性だったようです。

 名前も素性も分かりませんが、屋敷から一歩も外に出ることが

 出来なかったのでしょう。

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 寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

一、(閏7月)十四日、一伯様御番 日根野様衆ニ引渡シ、

掛リ役人共三佐マテ帰ル、

且 御家中へ 向後一伯様衆ニ通路無用ノ旨仰セ出サル

一、日詳ナラス(久盛公)三佐ヨリ御帰城

一、二十一日、去ル十三日府内日根野様へ御引渡シ相済ム旨仰セ上ラ

  ルヽニ付、御奉書

      以上

   一筆令啓候、

   公方様一段御息才 被成御座、御膳も御快被召

   上候間、可被御心易候、将又、去十三日之御状令拝見候、

   府内城中日根野織部正へ被相渡候由、得其意候、

   一伯殿被有之候番所之儀、前筋之様子被申渡、十四日

   ニ可被相渡之旨承届尤候、何も示給候趣達

   上聞候、委曲期後音之時候、恐々謹言

           閏七月廿一日   酒井讃岐守忠勝花押

                    土井大炊頭利勝花押

       中川内膳正殿

※大分市津守の公民館がある所が、一伯様の配流屋敷があった所だそうで、 石柱と説明板があります。

 

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 寛永十一年(1634)甲戊 久盛公 御年四十一歳

一、(閏7月)三日、府内城中ニコレアル南蛮ノ長石、京都へ差登セラレ、

公方様へ差上へキ旨、中川玄蕃長房へ仰セ遣ハサル

一、日詳ナラス 京都二於テ公方様へ御料理道具御献上

一、日詳ナラス 日根野織部正様へ府内城御引渡シノ為メ、

(久盛公は)竹中家ノ老職不破蔵人屋敷へ御移り、

城中ハ中川志摩(壱岐更名)重治ニ命シテ守ラセ置ル

一、十三日、日根野様府内御着アリ、即チ城御引渡シ相済ミ、

即刻御発駕、御人数一同三佐マテ御帰着

※この状況下でサンチャゴの鐘が府内城に在ったとは思えません。

※長石にはいろんな光を放つものがあるようです。

虹のような光を放つラブラドライト

赤い色のサンストーン(日長石)など。

※月長石 創元推理文庫があります。推理小説の古典ですね。

 「南蛮の長石」で50年前に読んだことを思い出した。

ウイルキー・コリンズ、中村 能三 訳

 月の光を放つインド寺院の宝。イギリス人の家から消えた謎を追う・・。

※日根野織部正吉明

幕府から、寛永15年(1638年)島原の乱、正保3年(1646年)には

長崎のキリシタン取締りを命じられた。

明暦2年(1656年)に死去。

嫡男はその前に死亡。

日根野吉明は死の直前、幕府に弟高当(高明)の息子吉重の長男を

末期養子に願い出たが、当時の定では吉明の願い出は受け入れられず、

吉明の死をもって大名としての日根野氏は断絶。

一族は旗本として存続した。(ウィキペディア)

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 ①麻地酒は、蒸し米、米麹、水を仕込み、密封して土の中に埋め、

翌年の土用頃まで熟成させてつくる甘美な濁り酒。

「甫庵太閤記(ふあんたいこうき)」、「御伽草子(おとぎぞうし)」にも

その名が見えます。土の中に埋め、草茅などで覆うので「土かぶり」とも

呼ばれていたようです。

日出藩は暘谷城(ようこくじょう)の二の丸に麻地酒をつくって貯蔵し、

幕府への献上品としていました。

大分の清酒は、この麻地酒の製造工程の流れをくんだ酒といえます。

                大分県酒造組合・日本酒の歴史より

②昔寛文の頃(西暦1670年頃)日出町の古刹康徳山

(コサツコウトクザン)、松屋寺(ショウオクジ)の小僧某が豫てより寺に造ってあった甘酒を飲みたく思っていた処、適々和尚の外出せしを好機と、多量盗み出し十分飲み、尚後日のためにと、之を壺に入れ附近の麻畑に埋めて置いた、ところが味が全く一変して清酒(スミザケ)となり、しかも一種の風味があり、美酒となっていた。

此の事を知った嶺外宗松大和尚(二代目)は時の日出藩で名君と云われた

木下右衛門大夫俊長公に此の美酒を奉った。

そこで俊長公は此の美酒の製法をとどめ、麻地酒(アサジザケ)と

名づけ、藩の手で醸造に着手、以来明治まで藩の将軍献上品とした。

「麻地酒」は左党の”夢の一杯”として文人墨客の詩歌に盛んに

詠まれている。

ふらすこや 影さへ見ゆる麻地酒  一招(いっしょう)

爺婆の 昼間遊びや麻地酒  闌更(らんこう)

いずれも江戸は寛政年間の句である。闌更は芭蕉ゆかりの俳人で

当時は京都に住んでいたというから「麻地酒」が趣味人の間で

いかに広く知られていたかしのばれる。

また、大分が誇る儒学者帆足万里は日出藩家老として仕えたが、

晩年は思うように飲めなくなった「麻地酒」を城中の人に無心する

手紙を残している。    大分むぎ焼酎二階堂、焼酎の秘密より

※麻地酒が濁り酒、清酒(スミザケ)とそれぞれ説明されています。

 今は清酒だけになっているのでしょうか。

 

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