2016年09月

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 寛永五年戊辰 御年三十五歳

一、正月三日、三佐御着、日詳ナラス 御帰城、

津九様大坂ヨリ御同道ニテ御下向

一、六日、大坂御城石垣御普請御手伝御用トシテ、

中川主水 其余出役ノ侍 岡出立

一、二十六日、老職中川主馬病死

一、月日詳ナラス 中川主馬養子 右京直高へ家督相違ナク、

老職仰セ付ラル

一、二月二十一日、大坂御普請奉行加賀爪民部少輔忠澄様・

堀式部少輔直之様大坂御着、

久貝因幡守正俊様 御役所へ中川式部召出サレ、

上意ノ趣仰セ渡サレ、

御黒印並二御奉行衆覚書拝見仰セ付ラル

※津九様大坂ヨリ御同道・・。

 慶長二十年(1615年)久盛公御年二十二歳

正月十日、城州伏見二於テ御男子御誕生、

御名津九 後 山城守久清卜称シ奉ル、

御母ハ侍女 安井忠右衛門女

※この時、久清公14歳。後の入山公。個性的な人柄を感じます。

大船山を愛し、今もその中腹に眠っている。

晩年の肖像画を見ても、大名らしい姿ではありません。

 

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 寛永四年丁卯 御年三十四歳

一、正月 日詳ナラス 森田和泉守重次

(堂上広幡家ノ御家臣、後ニ前田家ニ仕フ)

  ヨリ軍学御伝授済セラル

一、二月二十八日、岡城御発駕、三佐マテ御見送り中川式部長房

一、三月二十七日、江戸御着

一、二十八日、御参勤御礼仰セ上ラル

一、十二月二十三日、大坂御城石垣御普請御手伝御用トシテ、

中川式部長房岡出立

一、日詳ナラス 江戸御発駕 御暇ノ事詳ナラス

※発駕籠 ⇒ 発駕(はっか) 

発列車 ⇒ 発車(はっしゃ)

※公儀(幕府)に関連して行った城普請

 岡藩が普請を願い出た例もあったかもしれませんが、

 事実上、西国諸大名に普請を命じたものでしょう。

 寛永4年までの普請11件をリストアップしました。

慶長十三年(1611)駿府三ノ丸石垣御普請(家康居城)

 慶長十五年(1610)丹波国亀山城御普請 御手伝

 慶長十八年(1613)江戸御城御普請御手伝

 元和二年 (1616)江戸御城御普請御用石取立

 元和五年 (1619)大坂御城御普請 御手伝

元和六年 (1620)大坂御普請御用

元和七年 (1620)去冬大坂玉造口御普請場石垣、

伊東修理亮祐慶様御受持ノ処、

水敲崩レ、御当家御持場モ損ス

 元和十年 (1623)大坂御城石垣御普請鍬始メ

 寛永元年 (1624)大坂御普請場 水敲ノ分マテモ平均置相済ム

 寛永二年 (1625)大坂御城御普請

寛永四年 (1627)大坂御城石垣御普請御手伝

※この後、寛永6年には江戸城の石垣普請が始ります。

この普請も大変です。少し紹介すると、

正月十日、伊豆浦 石積御用船三艘、三佐出船、

乗組四十五人内 水主船頭三人、平水夫十六人

 

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 寛永三年丙寅 久盛公御年三十三歳

一、日詳ナラス 御城下 七里村二高流寺御建立、

御合力米 釆地其余 器物等御寄附

一、十月日詳ナラス 御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラレ、京都御発駕

一、十一月 日詳ナラス 御帰城

※稲葉川沿いに、英雄寺、碧雲寺、おたまや公園、高流寺と

 並んでいます。

※不染斎随筆より

2016 同4年丁卯2月、七里村に高流寺御建立有之。

中川左馬允、御内意を受て専ら取計。

右、御普請奉行は土屋源右衛門、三島半右衛門也しと云。

高流寺開山桐谷玄井和尚の事は別に記す故、爰畧す。

4006(前略)高流寺開山桐谷は即、碧雲の2世なり。此桐谷禅師は、

今の近戸谷の辺りに、草庵を結び隠し居たりしを、

中川左馬允重直、後、素單居士、禅学之志厚く桐谷和尚の玄風碩徳を

しって常に参禅す。此の頃、菅道夫がすすめによって宗安(久盛)公も

禅学に御心をよせられ、桐谷の事を左馬之允より御聴き遊ばされ、

桐谷の草庵へ毎々御入りありて、参学の上終に、

寛永の初め高流寺を御建立。

桐谷に住職仰せ付けらしに、程なく、碧雲の開山、雲室遷化によって

直ちに碧雲寺住持職となる。

※次のめずらしい記載もありますが、秀吉像は今もあるかな?

4007 高流寺に太閤秀吉の御影ある事は、安威八左衛門、秀吉公の御側

相勤めし時拝領せしを、八左衛門大阪落城の後、豊州に下り、

右御影は高流寺に納めおくと云う。

八左衛門は元亀の頃より、当家に陪従せし同姓三河守勝宗の

弟摂津守勝盛、秀吉公、秀頼公に仕う。

 

 

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 寛永三年丙寅 久盛公御年三十三歳

一、日詳ナラス 三佐 御船入内堀御普請二付、

番手鉄砲頭・組頭並二自身ノ者差遣サル

一、閏四月日詳ナラス 萩原御目附様ヨリ、

御領分絵図 御差出之儀仰セ渡サル清書ハ京都ニテ出来シ、

八月差出サレシナリ

一、五月十九日、当夏 将軍家御上洛ニ付、岡城御発駕、御上京、

三佐マテ御見送リ中川式部長房

一、日詳ナラス 京都御着

一、六月十一日、鉄砲頭両人与力四十人召連レ、上京ス、

来月六日、天皇 二候城ニ行幸ニ付、

御警固仰セ蒙ラルゝニ依テナリ

※地図の左上が三佐村、岡藩の御船屋敷、船蔵、湊があった所です。

 海に面した突端に遠見があります。

 出入りの船の監視、コントロールをしていたようです。

 ここが当時の交通の要衝で、参勤交代、上方への往来、

 物資の集散地だったようです。

 今でも、遠見の小さな築山が住宅に囲まれて残っています。

 整備された川の対岸も埋め立てられて、火力発電所が建っています。

 この地図がいつ頃作成されたか分かりませんが、

日豊線が通っていません。

鶴崎と大在の境を流れる大野川には、一本の橋も架かっていません。

今、橋のかかっている場所に、よく見ると、小さな船が両岸に

描かれていますので、渡しがあったようです。

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  三宅山御鹿狩絵巻 ③ 竹田市の指定文化財 より

岡藩では、3代藩主久清の明暦2年(1656)から

12代藩主久昭の弘化2年(1845)の間、御式鹿狩を行事として

行っている。

藩主が在国中に一度は鹿狩を行う慣わしで、軍事訓練や

入部儀礼として藩主の権威を示す行事になっている。

三宅山御鹿狩絵巻は、11代藩主久教が文化12年(1815)に

家督を継ぎ、文政2年(181945日と9日に行われた

鹿狩行事を記録したものである。

三宅山は城下町竹田から北方9kmにあり、御式鹿狩の行事を

岡藩御抱え絵師に措かせている。

 全16巻のうち1巻から8巻までは、初日の行列336人を名入りで

家臣団を措き、8巻から16巻までは、後日、帰りの行列319人を

名入りで措いている。

参加者は家臣団として5番手に色分けして編成されている。

青備、黄備、白備、赤備、黒印の遊勢(遊軍)とに分かれ、

名入り以外の人物を加えると、総勢2762名が措かれている。

製作年代は、文政2年から文政7年(1824)までを要し、

絵師は淵野真斎、淵野天香、森峨谷、丸山金弥、森崎右衛門、森崎貞記、

淵野春意、淵野香斎が記録されている。

大きさは縦幅45cmで総延長272mで、紙本で16巻にまとめられている。

 

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