2016年08月

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 元和六年(1620年)庚申 久盛公御年二十七歳

一、正月五日、大坂御普請御用二付、中川主馬並二鉄砲頭二人差登セラル

一、二月晦日、右御普請二付テノ御内書

   角石・平石・栗石 目録之通寔(まことに)念之入段 欣思召候、

猶 土井大炊助 可申侯也

     二月晦日   御黒印秀忠公

       中川内膳正とのへ

一、三月晦日、大坂御手伝二付、(久盛公)岡城御発駕

一、四月日詳ナラス 大坂御着、御普請ノ儀 御下知 相済ミ、

二十日、同所御出船、御下向

一、月日詳ナラス 御帰城

一、五月十七日、御舎弟 大蔵様 岡城二於テ御逝去、御年十四歳、

碧雲寺二葬り奉ル、御法号梅岳院殿然宗玄廓大居士

御石塔ニハ梅岳院殿然宗元廓大禅定門トアリ

  秀成公御三男、御母(虎姫)ハ新庄駿河守直頼様ノ御養女、

慶長十二年月日詳ナラス御誕生

※久盛公の兄弟姉妹、虎姫の子どもたち元和6年現在 3人健在

第1子 姉稍、 7歳で歿   第2子 御本人

第3子 妹小石 7歳で歿   第4子 妹スゲ

 第5子 弟小吉 早世     第6子 大蔵 5月17日死去

 第7子 弟内記

※西国の大名を動員して、大阪城の改修を始めたようです。

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 渡辺家と深田家の歴史を宇目町誌より抜粋で紹介します。

天正14、5年の島津軍の豊後侵入で、豊後・日向の堺目、

宇目郷内各地の戦いで、宇目七人衆は討死、四散し、

宇目郷は中川氏が入部時、渡辺・深田両氏の勢力圏となっていた。

この時、渡辺・深田両氏は、いち早く竹田におもむき中川氏に

恭順の意を表した。

中川氏はこれに対して、

深田氏を宇目郷支配役、  渡辺氏を割元役(わりもと・年貢割当役)に

任命した。

その後、関ケ原の戦いの余波で、臼杵城を攻撃する羽目になった中川氏は、

勢力不足のため領内の郷士(地侍)に地下人(家来)を召し連れて

参陣するよう命じた。

 従った郷士は、宇目郷の深田弾右衛門父子が

自分鉄砲三十挺、役鉄砲250挺、

割元役の渡辺父子は

100人の地下人を引きつれ参陣している。

(御年譜では)深田弾右衛門忠豊、養子新三郎忠親が、

御先手として、三重通り有智山(うちやま)を越え臼杵で相働く様子が

記載されている。

※江戸時代の軍役の基準は、50石に1人宛と言われている。

 これからすると、100石取の侍は自分と1人の家来、2人分の軍役を

課せられる計算になる。

※100人の家来を率いた渡辺家は5千石の軍役を果たしたことになり、

筆頭家老以上の勢力を持っていたことになる。

※自分鉄砲三十挺、役鉄砲250挺を持っていた

深田家は1万4千石の大名に相当する実力を持っていたことになる。

 (以下次回)

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 「るいさ」と隠れキリシタン    宇目町誌より抜粋

大正初期、渡辺家の当主良策氏は杉の植林をしていたところ、

偶然地中深く埋っていたこの墓碑を発見した。

しかし彼はその異様なのに驚き土で覆ってしまった。

それから四十数年が経過し、時の当主由忠氏は、父と共に植林をしていた

幼少の頃の記憶をたどり、あれはキリシタンの墓ではなかろうかと思い

再び発掘し、世の注目を浴びるに至った。

この「るいさ」の洗礼名をもったキリシタン婦人について、大分大学教授で

あった故半田康夫氏は、次のように述べている。

ルイザ(Luisa)というのは女性キリシタンの用いた洗礼名であるが、

彼女は渡辺家所蔵の「渡辺氏系書草案」や同家の位牌や墓碑から推測すると、

宇目郷割元役渡部善左衛門重福の妻は岡藩士渡辺与吉郎の娘であった。

のち善左衛門重福に嫁ぎ一男一女を生んだのち、元和五年(一六一九)三〇歳前後で

没したようである。

後妻は宇目郷惣支配深田弾右衛門(宗円)の娘で、その墓も位牌もあるのに、

先妻の墓も位牌もない。善左衛門重福は寛永一八年(一六四一)五二歳で、

嫡男吉左衛門重朝は天和三年(一六八三)に死去しているなどの事情から、

渡辺家の墓地に少し離れて一基現存する「るいさ」の墓は、善左衛門重福の

先妻であると推定される。

 

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 元和五年(1619年)己未 久盛公 御年二十六歳

一、(9月)日詳ナラス 京都二於テ御在所ヘノ御暇仰セ蒙ラレ、御発駕、

日詳ナラス 御帰城

一、日詳ナラス 大坂御城御普請 御手伝仰セ蒙ラル

一、日詳ナラス 願成院へ太郎坊社御建立

一、十月八日、切支丹御改トシテ、侍両人御領分中差廻サル

一、十三日、大坂御普請御手伝二付、出役ノ侍十二人差立ラル

一、日詳ナラス 愛宕社領百石、廟成院へ御寄附

一、十二月日詳ナラス 御手伝御用トシテ、中川加賀 大坂へ差登セラル

※御年譜で初めて「切支丹」の文字。改めに、侍2人で領内回らせる。

 あたふたとした感じがします。その2日前、京都の大殉教。

1613年(慶長18年)幕府は禁教令を全国に拡大

 1619年(元和5年)106日 京都の大殉教 六条河原で52名が処刑される

※同じ年元和5年5月22日。岡藩、宇目重岡で洗礼名「ルイサ」といわれる女性が

 葬られています。

※凝灰岩質平型の伏墓、長さ180cm、幅86cm、高さは軸部で27cm、

両端は22cm(県指定史跡)。

上面後部よりに日輪十字章(日輪の直径29cm)、

正面軸部中央に「るいさ」という洗礼名、右に「元和五年」、

左に「五月廿二日」と没年月日が陰刻されている。(宇目町誌)

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 元和五年己未 久盛公 御年二十六歳

一、(8月)十日、大風雨洪水ニテ御城下滑瀬橋落チ、

今津留堤切レ、田畠損シ、潰家十八軒、

萩原塩浜尽ク損ス、御船ハ奉行取計ヲ以テ御別條ナシ、

今市御茶屋モ破損ス

一、十二日、上使ノ御跡ヲ追ヒ、御使者御進物等持参ス、

十四日、肥後八代ニテ追付キ、御進物差上ル処、

御受ナク満足ノ旨御返答アリ

一、日詳ナラス 熊本 寺井小七郎ヨリ

去ル十四日・二十日ノ書翰追々達ス、

  此度ノ上使ハ 球磨領 那須ノ郷人 相良殿へ違命致スニ付、

御仕置ノ為御越シ、片付キ次第日向通り御帰府ノ由申越ス

一、九月三日、右上使 日向通り御帰府ノ趣二付、

中川加賀 兼テ佐賀ノ関へ相越シ、御使者相勤ル

※上使の後を追って、八代で追いつき、御進物を差し上げる。

阿部、大久保の2人も岡藩からの使者の対応に困ったでしょう。

※寺井小七郎は19年前、慶長5年(1600年)8月、関ケ原の戦い前に、

東軍加藤清正の下に岡藩中川家から送られた人質。

そのまま、加藤家に仕えていて、内々連携していたようです。

※佐賀関は明治初年まで、豊後水道を通る船にとって砂漠のオアシスの

ような役目をしていたようです。

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