2016年08月

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 元和九年癸亥 久盛公 御年三十歳

一、十日、千石庄屋へ仰セ出サル御條目

一、浜へ津出 万之物 買二遣(つかわす)時、

又 自(みずから)由有二参候、

    刻も、其者共二刀・わきさしさゝせ申間敷候、

    若(もし)小刀持参候者、竹の筒二入可参候

    附、萩原近所弐里之内ニて、

参候時も、戻ニも

    馬二乗申間敷事

  一、宰相様之儀、善悪之取沙汰一切仕間敷候事

  一、従他所商人・牢人何れも不見知者来候者、

    早速此方へ可申来候、

尚以左様之者ニむさとしたる儀共、

物語いたすましき事

    右三ケ候之趣、組中へ堅相触可申付候、

万一致疎略者侯者、可申来侯、

此方より聞付侯者、

一類眷属 可令成敗者也

     元和九年卯月十日

※又自由有二参候、刻も、は

又自由有二参候刻も、其者共二刀・わきさし・・。かな?

※宰相之儀、と敬称付。

居住する船屋敷の宰相様を憚ったのでしょう。

 その周りの場所、浜・海岸、津・船着き場や

市に行くときの注意事項。

刀、脇差は駄目。小刀は竹筒に入れて。

馬は荷物を運ぶのはよいが乗ってはいけない等々。

※今度流されてきた者(忠直)は暴君であると、幕府要人が殊更流し、

忠直と外部の者との接触を極端に遮っている感じです。

しかし、大分では忠直卿、一伯様と親しんでよんでいます。

 ブログ3/30〜4/8参照

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 不染斎随筆の記述

2008 同(元和)9年癸亥、正月、此の度、一伯様一件、

最初は将軍家、越前へ御出馬の模様有之。

依之、正月27日江戸より豊州の御家老共へ下されたる御書。

                  (27日ブログ参照)

広計案ずるに、右、御書付の内に大筒50目3丁とあり、

其の頃には御当家に100目以上の大筒取扱かふ火術者流は

なかりしと見ゆ。

入山(久清)公御代に至り 松坂内蔵助豊州に来たりしより

100目の大筒自由に打事になりと思はる。

尤、慶長2年、宗鑑(秀成)公朝鮮国へおもたせありと云う。

からかねの大筒は、今、御武具庫の庭にあれども、

異形のものにて 其用ひ方不詳。

久山(久恒)公御代、元禄3年9月、武衛茂兵衛義住、

同7年6月、古田佐右衛門友政、追て召し抱へられしより、

御当家の火術いよいよ御手厚になりて 今に及ぶと見え、

又、御軍用の鉄砲、此の頃迄は 玉同4文目3分通用にて有之処、

入山公御代より 御軍陣之御手当は6文目筒にお極め被仰出。

※火縄銃の百匁の口径39.5mm程。

 大筒と言うよりも大砲ですね。やはり、抱えて打ったのでしょうか?

 

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 元和九年癸亥 久盛公 御年三十歳

一、二月十七日朝、先月二十七日ノ御書 岡へ達ス、

公方(将軍秀忠)様 越前 御出馬ノ趣二付、

諸大名方 御供二御登リノ由 御聞及ヒニ依テ、

御書附ノ通 急度大坂マテ罷登ルヘク、最(もっとも)豊後ニテハ

 上(秀忠)様御上洛二付、御呼寄ノ旨申渡シ、

越前御出馬卜申事ハ、如何ニモ穏密二致スヘキ段仰セ下サル

     覚

  一、式部 主馬 隼人

  一、鉄砲頭残六人#小鉄砲之もの不残

  一、組頭残四人

  一、自身拾五人但、壱番より五人ツヽ知行高次第

  一、のぼり拾五本

  一、鑓七拾本、右二ケ条惣番手中知行高二割符仕

     のほせ可申候、委儀ハ加賀監物かたより可申遣也

此書付重而此方より一左右次第可罷上候、共用意仕相待可申候、

其節様子可申達候也

元和九正月廿七日   内膳御花押

      中川式部殿

      中川主馬殿

      中川隼人殿

※次の 覚 以下略 詳しい内容は次回

※ここから、松平忠直(一伯)を預かる岡藩の苦労が始まります。

 府内(大分)に譜代大名の竹中采女正重次が居たのに、

岡藩に任せたのは何故でしょう。

※自身拾五人 但、・・・知行高次第 

自身とは藩士の家来。知行高によって家来を持つ。

おおよその基準は50石に1人宛。

7万石の岡藩で、軍役5万石となると千人の軍編成をする義務。

朝鮮渡海では、中川氏は千五百人の軍編成している。

戦国期は50石に1人宛の基準は曖昧だったのでしょう。

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 元和七年辛酉 久盛公 御年二十八歳

一、九月十三日、明年大坂御普請アルヘキ由二付、

御手当トシテ御人数差登セラル

御年譜附録

一、九月十三日、明年大坂御普請ノ條

今考 古状留往返ノ書簡ヲ考ルニ、十三日、石割之者六拾人大坂へ

    御差登セ被成、

大坂二詰居候 草刈九郎右衛門・小原九右衛門・

    山岸次郎左衛門差配致候様、

三宅平左衛門石割奉行として

    小豆島江相詰、

御影(御影石)飯森等 所々石割御手当云々

一、二十九日、肥後ヘノ御目附中川勘解由直定様・真田長兵衛様今市

  御通行二付、御馳走トシテ中川主馬・中川式部長房今市へ相詰ル

※広報たけた連載   ミステリアス!竹田キリシタンシリーズ別冊

 大坂城から発見された岡藩中川家の謎の石垣より抜粋

大阪城と岡藩 産経新聞11/20付け記事

 平成2511月、大坂城三の丸跡の発掘調査現場から謎の記号が刻まれた石が

  多数、出土した。

それらは、大坂城再建当時に岡藩が担当した石垣の部材で、

26個のうち19個に謎の記号が刻印されていた。

その記号とは、『中』、『逆卍』、『△』の3種類である。

『中』とは中川姓を表記する。

『逆卍』は暗にキリスト教を示唆しているのではないかと推測する声もある。

『△』の△に囲まれた漢数字の『三』は、当時の岡藩石割奉行であった三宅平右衛門のサインとも取れる。だが、三を囲む△にはどのような意味があるのだろうか。

これについてキリスト教関係者の言葉を借りれば、△はキリスト教の教義における三位一体(さんみいったい・父と子と聖霊)を表わしているのではないかという。

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 元和七年辛酉 久盛公 御年二十八歳

一、六月、日詳ナラス 中川左馬允重直儀、

先年公儀ヨリ京都ニ差留置ルゝ処、

御親類様方へ兼テ 御頼 御歎キ 仰セ上ラルヽニ付、

豊後へ御下シ置ルヘキ旨、

御老中ヨリ仰セ渡サル

※慶長二十年5月 大坂城落城後、

中川家の家老・中川(古田)左馬允重直の

祖父古田織部正重勝(重然・しげなり)が

今度大坂内通ノ御咎メアリ、親類タルニ依テ公儀ヨリ京都二御差留メ

 されていたが、

 不染斎随筆でも先祖左馬允のことを、

 其の後、何の御沙汰もなきにつき宗安(久盛)公より

御親類方へ御頼之にて公儀御役家へ御内歎有之処、蒙御免。

同(元和)7年辛丙8月2日豊州に下着す。

 と、あります。

※左馬允の京都での7年間は御年譜には書かれていません。

 不染斎随筆に書かれていたことを、ブログ7/26〜7/29で

 紹介しています。

※古田織部は義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、

長女・せんを中川秀政の養女とした上で配偶し中川家の家臣としたという。

この重続の子孫は、重然の正系が絶えた後も中川氏の家老として存続した。

(ウィキペディア)

※優しさを感じさせる高流寺の仁王像。

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