
一、正月日詳ナラス 大坂御発駕、豊後へ御帰陣
一、十日、城州伏見二於テ御男子御誕生、御名津九
後山城守久清卜称シ奉ル、御母ハ侍女安井忠右衛門女
一、二月日詳ナラス 当御領 有氏卜 肥後領久住卜九重山、
堺目争論起ル
一、四月日詳ナラス 将軍家・豊臣家御和睦破レ、再ヒ大坂へ御出馬、
依テ岡城御留守中川大隅資政へ仰セ付ラル
御備姓名 老職旅目安・御先手物頭古帳抜書・諸士家譜等ヲ以テ記ス、
其余 古記残闕(欠)、総人数御備定等ノ事詳ナラス
中川主水 中川式部長房 中川左馬允重直 中川隼人資重
(以下氏名略)
直ニ京都御参向
一、十三日、二條御城ニテ将軍へ御目見、遠国ニテ此度ノ御合戦二
御遅参御無念ノ段、寺沢志摩守広高様御一同仰セ上ラル
一、日詳ナラス 中川(古田)左馬允重直京都マテ御供ノ処、
祖父古田織部正重勝(重然・しげなり)今度大坂内通ノ御咎メアリ、
親類タルニ依テ公儀ヨリ京都二御差留メ
※大坂夏の陣の折りに重然の重臣である木村宗喜が豊臣氏に内通して
京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられた。
重然も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を
大坂城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の
6月11日に切腹を命じられた。重然はこれに対し、一言も釈明せずに
自害したといわれる。(ウィキペディア)
※中川(古田)左馬允重直京都マテ御供 の後を
子孫が書いた不染斎随筆で次回紹介。



