2016年07月

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 元和元年乙卯 久盛公 御年二十二歳

一、(7月)二十五日、御帰城

一、日詳ナラス 中川左馬允京都二御差留二付、思召コレアリ、

左馬允ハ隠居分二仰セ付ラレ、嫡子竹松 時に四歳二家督相違ナク、

老職仰セ付ラル

一、十月二十八日、当二月九重山ノ堺目争論、今以テ静ナラス、

依テ老職共ヨリ加藤家老職へ使者ヲ以テ、是マテ在来リノ通相済シ度旨

掛合二及フ

一、十一月日詳ナラス 岡城御発駕、御年賀トシテ江戸へ御参向

一、十二月十四日、九重山堺目争論ノ儀、去ル十月二十八日、老職共ヨリ

加藤家老職マテ掛合二及フト雖トモ、未夕片付ス、依テ堺目ノ儀、

豊後大友屋形以来 当家入国後モ、二十箇年余異儀ナキ儀二付、

是マテノ通致シ度旨 猶 又申遣ス

※九重と久住、その起源は、延暦年間(800年頃)にこの地に九重山白水寺と

  久住山猪鹿寺の2つの寺院が開かれたことにさかのぼる。

 近代に入ると、山群の北麓に九重町(ここのえまち)、

  南麓に久住町(くじゅうまち、現・竹田市久住町)が誕生した。

現在では、火山群や周辺地域全体を指す場合に「九重山」や「九重連山」を用い、

その主峰である単独の山を指す場合に「久住山」を用いるのが一般的である。

 「九重」と「久住」のどちらかにするかで長らく論争が続いたが、

「阿蘇くじゅう国立公園」とすることで決着した。(ウィキペディア)

※中川、加藤家で論争になったのは、久住山南麓の事の様です。7月25日参照

 

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 慶長二十年乙卯 御年二十二歳

一、閏六月日詳ナラス 公儀ヨリ大坂諸牢人ノ御詮議稠シク、

並ニ煙草禁止ノ儀二付、老職ヨリ末々マテ誓紙血判差上ケ、

郷中ハ千石庄屋召出シ誓紙血判致サセ、自身ノ侍差廻シ、

大坂浪人ノ吟味ヲ遂ケ、以来万一御法度相背ク者コレアラハ、

妻子マテ成敗二相成ヘキ旨、小百姓マテ十人組二血判ノ誓紙ヲ差出サセ、

一箇月二一度ツゝ、自身ノ侍受持ノ村々相廻り、改ムヘキ旨厳重二仰セ付ラル

一、七月七日、是ヨリ先キ、大坂浪人明石掃部守重御詮議二付、

九州地御改トシテ左ノ四人府内マテ来ル、

当御領分ハ兼テ吟味稠シキコトヲ承り、相越マシキ間、請状差出スヘキ旨、

使者ヲ以テ中越ニ付、即チ請状使者二相渡シ、案内ノ者差添へ府内へ返ス

     為御証明石掃部御尋之通、得其意申候、

     此跡中川内膳正領内堅雖相改候、

至今日左様之者無之候、然者各於御聞出ハ可被仰聞侯、

則搦捕、京都迄可差上候、此以後若於来候者、    ′一 てし

     猶以可為右之分侯、為後日如件

      慶 弐拾年       中川大隅

         七月七日     中川主水

                   中川遠江

     戸川肥後守殿御内

        戸川六右衛門殿

        景山作十郎殿

     岡越前守殿御内

        津島孫兵衛殿

     花房五郎左衛門殿御内

       八木弥右衛門殿

一、日詳ナラス 京都二於テ御暇仰セ蒙ラレ、御発駕

一、(7月)十三日、年号改元

※大坂牢人の詮議と煙草禁止に誓紙血判を出す。

 この二つの事を民百姓にまで徹底させる、相互の関係に

 違和感を覚えます。

 

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  古田織部正重勝(織部正) 中川家に由緒の事

1、織部正重勝妻は、中川佐渡守重清の娘にて、

中川家の先祖、清兵衛尉清秀の妹なり。

 織部正、此の時はいまだ、古田左助といいて、信長公の御使番にて、

知行は8千石なりしという。

 天正6年、信長公、摂州の荒木 御追討の節、中川清兵衛は荒木の幕下なれば、

此の節より信長公の幕下に随従して、軍忠あるべきよしの信長公の内命をうけ、

古田左助は毎々、茨木の城に忍び来たり、其の事を申談じ、天正6年11月、

漸 事整い、中川は信長公の御味方となる。

 されど、戰国の人心はかりがたく、然るに、古田は幸い中川の妹婿なれば、

当時、中川方にありて、信長公に奉公ぶり心をつくすべきとて、

表向きは中川家に信長公より御加勢のかたちにて、此の時より古田は茨木より

来たり、出陣等の節は中川家の合備となる。

 天正11年、江州賤ヶ嶽の役より、中川清兵衛戰死の後、

嫡子中川長鶴(後右衛門大夫秀政)若年に付、古田左助は其のまゝ中川家に

あって、長鶴に後見すべき旨、秀吉公の仰せにより所々の戰場相備にて出陣

せし処、秀吉公、大阪城御築きになるに、中川家の領地御城より近きにより、

1万石御加増下され、13万石高にて、播州三木の城主に所替え仰せつけらる。

 もはや、古田左助は中川の後見に三木に行くにおよばず、

秀吉公に仕え奉るべきよし仰せ付けられ、此の時、従五位下に叙し、

織部正に任ず。

 播州にては、織部正養子として美濃国にある同氏、古田平治重続を播州に

 呼びよせ、則、織部正嫡女を妻せ、三木にて平治へ中川家より知行2300石

 給わり、家老となり、終に世籠となれり。

子孫相続して、今の古田中務(不染斎)は織部正より12代なり。

文化13年秋8月

 

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 不染斎随筆2004(整理番号)

(中川(古田)左馬允)

右(京都)逗留中召仕の下女に男女の子出生したりしに。

男子は、古田小左衛門正勝と云う。

後に丹後の宮津、京極丹後守高広に勤仕の処、

御暇申請け浪人して豊州 岡御城下に来り町人となる。

今の古田藤助より五代の祖なり。

小左衛門、初はいささかの酒屋なりし故に中川藤兵衛より

年に米50石宛内々にて相贈り合力したりし由。

居宅も其の頃、大庭慶問揚り屋敷地を藤兵衛より相願い

下屋敷に拝領して小左衛門に渡し遣わすと云って、

女子は京都の医師大庭慶問に嫁す。

其の子 慶問、肥後の国に下りありしを、久山公御代、元禄の始め、

古田家の由緒を以て、20人扶持被下御医師に召し出さる。

今の大庭䑓右衛門景倫が先祖也。

され共、左馬允京都へ公儀より御差し止め中

内々妾腹に出生の子共故、豊州にては表向には終に披露なしと云。

※岡御城下に来り町人となった「宮津屋」が不染斎随筆に、

しばしば書かれています。

今後、関係することがあれば紹介します。

 

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 不染斎随筆2004(整理番号)

 元和元年乙卯、大阪御陣の節は御船中にて大阪落城の旨達御聴

それより御揚陸にて宗安(久盛)公は御上洛に付、

中川左馬允も御供にて有之処、此の節、古田織部正、大阪城中へ内通者有之やの由、

御咎めにて切腹仰せ付けらる。

左馬允事は孫の続きに付、織部正親類の面附にのり、

公儀より京都に御差留に相成り。

其の後、何の御沙汰もなきにつき宗安公より御親類方へ御頼之にて

公儀御役家へ御内歎有之処、蒙御免。

同(元和)7年辛丙8月2日豊州に下着す。

広計案ずるに、大阪落城の件、御船中播州明石にて相聞え依之、

総御人数は船中より豊州へ御帰し、宗安公は御揚陸にて早々大阪御着。

それより御上洛ありしと云う。

又、左馬允事、京都に7年逗留中は山内土佐守様 兼て御懇意に付

居所普請等も御世話下されたる由。(以下次回)

※御年譜に左馬允が京都に留め置かれた後、左馬允の跡目の事が書かれています。

元和元年(7月)日詳ナラス 

中川左馬允京都二御差留二付、思召コレアリ、

左馬允ハ隠居分二仰セ付ラレ、嫡子竹松 時に四歳二家督相違ナク、

老職仰セ付ラル

※中川(古田)左馬允の嫡子竹松 後の中川(古田)藤兵衛重治

※慶長20年7月13日年号改元 元和

 

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