
然るに、慶長7年壬寅3月、
古田小三(古田広計の先祖・家老中川(古田)左馬允重直)、
知行所 藤北の内、宮迫村の百姓共、公事訴え出し由の事、
裁許所の古帖にあるを見れば、宮迫村辺は古田家の知行所とは
しられたり。
又、元和中に中川左馬允、馬背戸に閑居暫したりしも、
知行所故なりと云い伝う。
今、馬背戸組広石村の内に左馬允住居跡と云う所ありて、
同村の百姓も其の事語り伝うれ共、200余年の昔の
事故(ことゆえ)、屋敷構えの様子は不詳。
元和の頃迠は、今の広石村は馬背村の内にありし也。
※宮迫村 豊後大野市大野町宮迫
※馬背戸 豊後大野市緒方町馬背戸
現在の馬背戸米の産地ですか?
※公事訴え出し由の事、とは、何をどう訴えたの不明。
※昨日、今日と御年譜の空白部を窺える何かを探すために
不染斎随筆を記載しました。
①家臣の動向。江戸中期以降に比べて流動的。
②侍、農民と云っても、御無理御尤もの時代ではない。
③慶長13年8月27日〜慶長15年1月10日まで
1年5か月間、2度目の空白期間がある。
※BSのある番組で、鎌倉幕府の公式記録「東鑑」の
源頼朝死、前後数年の記録がない。ことが話題になっていました。
記録があると困る人がいたようです。
2度目の空白期間の事も含めて、関心のある方々で、
それはなぜか?を話し合う機会を持ちたいですね。


