2016年06月

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 8003 (慶長7年3月の記録、前略)

然るに、慶長7年壬寅3月、

古田小三(古田広計の先祖・家老中川(古田)左馬允重直)、

知行所 藤北の内、宮迫村の百姓共、公事訴え出し由の事、

裁許所の古帖にあるを見れば、宮迫村辺は古田家の知行所とは

しられたり。

又、元和中に中川左馬允、馬背戸に閑居暫したりしも、

知行所故なりと云い伝う。

今、馬背戸組広石村の内に左馬允住居跡と云う所ありて、

同村の百姓も其の事語り伝うれ共、200余年の昔の

事故(ことゆえ)、屋敷構えの様子は不詳。

元和の頃迠は、今の広石村は馬背村の内にありし也。

 ※宮迫村 豊後大野市大野町宮迫

 ※馬背戸 豊後大野市緒方町馬背戸 

現在の馬背戸米の産地ですか?

 ※公事訴え出し由の事、とは、何をどう訴えたの不明。

 ※昨日、今日と御年譜の空白部を窺える何かを探すために

不染斎随筆を記載しました。

  ①家臣の動向。江戸中期以降に比べて流動的。

  ②侍、農民と云っても、御無理御尤もの時代ではない。

  ③慶長13年8月27日〜慶長15年1月10日まで

   1年5か月間、2度目の空白期間がある。

 ※BSのある番組で、鎌倉幕府の公式記録「東鑑」の

源頼朝死、前後数年の記録がない。ことが話題になっていました。

記録があると困る人がいたようです。

2度目の空白期間の事も含めて、関心のある方々で、

   それはなぜか?を話し合う機会を持ちたいですね。

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 ※左4桁の数字は整理番号 1〜⒏部 3桁は項目

1053 慶長6年辛丑7月、江州膳所(ぜぜ・大津市)之城御普請有之。

其の節、清正様より御返翰。(19日のブログ)

6055 (慶長7年春の記録、前略)

   然るに慶長5年の秋、関ヶ原御陣の前、宗鑑(秀成)公より

三宅長兵衛を池田輝政君に御加勢に遣わされしに、

同国岐阜の城攻めの時、池田家の御人数と真先に進み、

長兵衛 城の一番乗りを遂げ、武勇をあらわせり。

其の頃 長兵衛の弟、勘十郎、小平次の両人は

古田喜太郎重則に随従して、同年10月4日、豊州佐賀の関の戦に

兄弟共に討ち死にす。

前書の如く、(三宅)長兵衛政頼は岐阜城攻めにて一番乗りの武功、

且、両人の弟は佐賀関にて討ち死に旁々(かたがた)以て

抜群の御賞誉これあるべきと思うに、御加恩の軽きを

憤(いきどお)り、

慶長7年の春 豊州を立ち退き、京極若狭守忠高君に禄5百石にて

足軽大将に出、寛永14年彼方にて卒す。

其(三宅長兵衛)の子の以心政友也。

以心も初めは京極家に仕禄2百石なり。

   後、浪人して江戸土器町に居住し剣術指南を業としいたるを

     委細の訳、久山(4代久恒)公御聞き及び遊ばされ、

貞享5年(1688年)戊辰7月2日(岡藩に)帰参。

(以下略)

 ※ 御加恩の軽きを憤り、岡藩を離れた人が

相当いたのではないでしょうか。

 

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  慶長六年(1601年)辛丑 秀成公御年三十二歳

一、月日詳ナラス 臼杵城稲葉右京亮貞通様御拝領二付、城地引渡シ相済、

  中川左近長種御人数召連レ、岡二帰ル

一、月日詳ナラス 大坂二於テ御奥様二御女子御誕生、御名小石卜称シ奉ル

一、月日詳ナラス 加藤主計頭清正様今市御通行二付、

御馳走役大岩九郎三郎家信へ仰セ付ラレ、知行所百姓共召連レ罷越シ、

蕎麦切ヲ進上ス

細川様今市御通行ノ節モ蕎麦切差出セシハ此例ナリ

一、年月日詳ナラス 御領内久住白丹名卜熊本領荷小野村御替地ニナル

※秀成公、虎姫の三番目の子小石誕生。 1、稍、2、久盛、3、小石

※今市が交通の要衝だった。

細川様は、加藤家が改易された後の肥後藩主。

※野津原荷小野が肥後藩領から岡藩領に。

 白丹が岡藩領から肥後藩領に。

 なぜ荷小野が肥後藩領だったのか、興味がわきます。

※御年譜はこの後、慶長8年2月12日まで記載が無くなります。

 1年5か月の空白は何だったのでしょうか?

 ① 記載されていたが、何かの都合で破棄された。

 ② 中川家内の混乱で、記載できなかった。

 多角的に検討してみたい。

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 慶長六年(1601年)辛丑 秀成公御年三十二歳

一、九月六日、山岡道阿弥・岡江雪ヨリ羽柴三左衛門輝政様ヘノ書翰

  此道阿弥・江雪ノ書翰ハ、去年臼杵御陣後、内府公御前相済タル節ノ事卜見ユレト

  モ、月日ヲ以テ推セハ、石垣原一乱、臼杵表平均ノ月日ニ違フヲ以テ当年卜定ム

     巳上

   中川修理殿之儀、上件条々不残申上候処、支

   たる仁在之候、雖然、中修忠節之御事候之間、

   即如此被立置候、不相届太田飛騨なとハ即時二

   御知行被召上候、又支たる仁も御近所二不被置、

   遠国へ被遣候、此上者 内府様御心無別条候

   段、両人より可申渡之旨御諚候、珍重二存候、委

   細者中修両便可被申入候、恐憧謹言

     九月六日   山岡道阿

            江 雪

     羽 三左様

              参人々御中

※岡江雪=板部岡江雪斎 北条氏、秀吉、家康に仕えた人

      僧、武将、歌人として有能だったようです。

※山岡道阿弥 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康 に仕えた常陸古渡藩主

※羽柴三左衛門輝政 池田輝政 秀成公の姉の夫だった人

※支えたる仁(人)とは誰を指すのか?

7ヶ条の不審点の一つでしょう。

慶長6年9月6日から慶長8年2月12日まで御年譜の空白

と関係ありそうです。

※慶長6年に 年月日詳ナラス 5項目は次回掲載

※中修忠節・・ 中川修理大夫の忠節・・

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 慶長六年(1601年)辛丑 秀成公御年三十二歳

一、七月二十八日、加藤主計頭清正様へ、

去ル十五日上方ヨリ御書遣(つかわ)サレシ其返翰

    去ル十五日之御状、昨廿七日至熊本令拝見候、

    如仰、其後者久々互二以書状も不申承、

    御床敷折節示預、本望之至候

  一、上辺相替義無之

    秀頼様・内府様何も御息災、天下御静謐(せいひつ)

    之旨目出度存候

  一、景勝手前相済、近日(秀成公が)上洛之由、公私之満足与

    存候

 一、勢多面々之御普請雖有之、貴殿御赦免之由、

    於拙者大慶二存侯、定而近日可為御下向候条、

    程近く可申承候、此辺無相替義、手前普請

    等申付候故、不沙汰本意之外候、猶追而可申

    入候、恐々謹言

      七月廿八日   加 主計清正

      中 修理様

          御返報

※秀頼様・内府(家康)様何も御息災、天下御静謐・・目出度存候。

 秀頼を大事にしたい清正の安ど感が出ています。

※御普請・・は、家康の秀成に対する御不審・・という事でしょう。

 仲介の労を取った、清正から見ると、秀成公が家康から許されたので、

大慶(大いなる喜び)に思っている。と云うことでしょう。

 

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