イメージ 1
 慶長五年庚子  秀成公 御年三十一歳

※敵味方に分れて戦ってはいるが、太閤秀吉に仕えていた者同士の

  心情が感じられる文です。御年譜では分かりにくいところを

補ってくれます。

敵(中川勢)の名のある者は、其の首を打ち落とし、悉く臼杵に送り、

太田飛騨守の實檢に備えたのであったが、

その時、太田飛騨守は首数あまたあるが中にも、田原詔忍が首と

古田喜太郎が首を見てはらはらと涙を流し、之を三宝に載せて恭しく

上座に置き親(みず)から威儀を改め、先ず詔忍が首に盃をした。

(自分太田)政信(は)不幸にして君を死に至らしめたるも、

君の心事は察するに餘りあり、

累代の主恩に報いんとして、事志の如くならず、一時權宜の苦計として

中川の旗を用いたるも、戰場の驅引なれば、左迄(さまで・そうまで)

責むべきことに非ざれども、其の不信の擧動たりしことを悔ひ、

終に贖責(しょくせき)のために今日 此の死を致されたること、

義に強く、恩に脆ろく、今は首に成られたるも、誠に古の良將の器量心に

感ずる處であると言ひ、(以下次回)

※御年譜には書かれていませんが、戦いは臼杵勢が優勢だったように思えます。

※山田宇吉さんは、別府市行合町にお住まいとなっていますが、

 御子孫の方が今も住んでいるかもしれません。

 佐賀関との関係は不明です。佐賀関町史とは別の物です。

 

 

イメージ 1
 慶長五年庚子  秀成公 御年三十一歳

一、(10月)七日、柴山勘兵衛重成、今津留ヨリ家士 柴山勘左衛門ヲ以テ、

  佐賀ノ開合戦ノ次第、討死ノ面々等委シク書記シテ、

臼杵(の中川家)御本陣二言上ス

一、日詳ナラス 池田某・横田某上方二罷上り、内府(家康)公へ臼杵城攻、

佐賀ノ関合戦 (中川)平石衛門・喜太郎以下多勢戦死ノ旨具二注進ス、

最(尤も)(大河原)久作・(拝郷)五助 度々(たびたび)

(井伊直政のもとに)罷出、(秀成公の)御歎キ申上ル、

且(かつ)加藤主計頭清正様ヨリ去ル八月十八日ノ御誓紙ノ趣モ上聞二達シ、

御疑漸ク解ル

一、日詳ナラス 黒田如水軒 家臣 大野四郎兵衛ヲ使者ニテ、

臼杵ハ関東方ナリ、然ルニ(秀成公が)御出馬アルコト沙汰ノ限リナリ、

早々御人数引払ヒ給ヘト申越セハ、

(秀成公の)御答ニ、太田飛騨守ハ石田方二相違コレナシ、

依(より)テ関東へ忠節ノ為メ出馬セシムル所ナリ、

即チ池田三左衛門(輝政)ヲ以テ言上モ致シ置キヌ、

如水軒殿指図ニテハ引取り申スマシク、

関東ノ御下知次第二致スヘキ旨仰セラル

 ※黒田如水の使いが、

臼杵(太田一吉)は関東方だ、なんで攻めるんだ・・・。と云われても、

秀成公は、軍を引くわけにいきませんね。

臼杵から撤退したら、やはり、中川は石田方だったと、

通報されかねませんから。

 ※こんなところにも、両家の関係断絶の原因があるのでしょう。

イメージ 1
 慶長五年庚子  秀成公 御年三十一歳

一、(10月)五日朝、臼杵城ニハ 昨日 佐賀ノ関ニテ味方討死ノ首・指物等

屏ノ上二出ス、味方コレヲ見テ勇ヲ挫カレントス、

(秀成)公 少シモ御愁(うれい)ノ色ナク味方ヲ励シ、

御先手 平清水マテ押詰メ、一時二城ヲ攻抜ントシ給フ、

深田弾右衛門思豊・同新三郎忠親、先登ニテ堀際二働キケレハ、

城中ヨリ井塚内之丞卜云フ物頭、鹿毛ノ馬二乗り、城外二乗出シ下知スル処ヲ、

新三郎 入江ヲ隔テ、鉄砲ニテ撃落ス、

新三郎力 家来 高野宗右衛門、直二入江二飛入り、

祇園洲二上り敵ノ首ヲ取ル、

其時 城中ヨリ雨ノ如クニ弓・鉄砲ヲ放チ掛レハ、首ヲ持ナカラ

又入江二飛入り、水中ヲ潜り遁レ出テ、其首ヲ新三郎二渡シ、

御実検二入レ奉ル、

加藤四郎左衛門長房ハ星河内城ヲ陥レ、

討取ル首級、分取ノ陣幕等ヲ携ヘテ御本陣二参上ス

 
 

↑このページのトップヘ