
※敵味方に分れて戦ってはいるが、太閤秀吉に仕えていた者同士の
心情が感じられる文です。御年譜では分かりにくいところを
補ってくれます。
敵(中川勢)の名のある者は、其の首を打ち落とし、悉く臼杵に送り、
太田飛騨守の實檢に備えたのであったが、
その時、太田飛騨守は首数あまたあるが中にも、田原詔忍が首と
古田喜太郎が首を見てはらはらと涙を流し、之を三宝に載せて恭しく
上座に置き親(みず)から威儀を改め、先ず詔忍が首に盃をした。
(自分太田)政信(は)不幸にして君を死に至らしめたるも、
君の心事は察するに餘りあり、
累代の主恩に報いんとして、事志の如くならず、一時權宜の苦計として
中川の旗を用いたるも、戰場の驅引なれば、左迄(さまで・そうまで)
責むべきことに非ざれども、其の不信の擧動たりしことを悔ひ、
終に贖責(しょくせき)のために今日 此の死を致されたること、
義に強く、恩に脆ろく、今は首に成られたるも、誠に古の良將の器量心に
感ずる處であると言ひ、(以下次回)
※御年譜には書かれていませんが、戦いは臼杵勢が優勢だったように思えます。
※山田宇吉さんは、別府市行合町にお住まいとなっていますが、
御子孫の方が今も住んでいるかもしれません。
佐賀関との関係は不明です。佐賀関町史とは別の物です。

