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 慶長五年庚子  秀成公 御年三十一歳

其の他 錦江寺には中川長祐、下村重吉の位牌あり、

福正寺には古田、萱野、仲家、柴山、牧の過去帳がある、

ただ 牧勘助右衛門の死したるは十月三の有屋峠(金山)に於の事なりしは、

前に言へる處であるが、過去帳には十月四日の戰死となし

「烏帽子嶽の渓に戦死す」と記して居る、

是れ何れか眞なりやに惑ねばならぬやうではあるが、

天明六年(1786年)五月 古田廣計、古田廣倫等が

錦江寺、福正寺住僧に質し、

尚ほ 其の当時八十二歳の佐賀関の高家善兵衛といふ老人の説等に問ひしに、

前に記したる如くであつた云えば、

福正寺の過去帳も古きむのが 其の後蟲喰い等により新らしぐ補綴せられたとき

豊州乱記佐賀関軍記等の広く行はれたるものに従ったかも知れぬのである。

※天明6年、古田廣計、古田廣倫等が錦江寺、福正寺住僧に佐賀関の戦い、

古田の先祖や、その時戦死した岡藩士のことなどを聞いた、と書かれて

 いますように、古田広計(不染斎)はその後、不染斎随筆にその事を

 まとめて記載しています。

※その記録では、佐賀関訪問(墓参)は天明4年から4回記録されています。

 次回紹介します。

 

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  慶長五年庚子  秀成公 御年三十一歳

 然も中川勢が臼杵を包囲せし以来、両軍の死傷少かりしため、

秀成に對(対)する家康の嫌疑は未だ霽(は)れず、

或は 太田 中川の八百長戦争であらうと思って居たのであつたが、

佐賀関の一戦 中川の名臣多く死したりと聞き、

且 池田輝政が其れを機会に家康に取成したので、

黒田加水が確証を握って家康に報告したる中川疑ふ可しとの説も取消され 

家康は更らに中川秀戌に隔意を措(お)かぬこととなったのであった、

是れ 此の諸士が血を以って其の主の家を守った大功績であるから

秀成は共後 忠死の士を厚く葬り 其の妻子に特別の礼遇を與へた

左義長鼻の南丘汐見山にありし俗称十人塚は、

 中川 古田 萱野 下村 宗像 中山(一に仲家了悦)牧 柴山了可

 佐子野 田原の十人のために中川氏の建てたる塚にして

同藩より年々祭祀を行ひ以て明治維新に至つたのであつた、

※左義長鼻、汐見山も今は市街地になって、当時の面影を捜しても見つかりません。
 せめて、十人塚の墓石だけでも、どこかに祀られているといるとよいですね・・。
※上記二ヶ所も、旧佐賀関町文化財の冊子に折り込まれている地図のおかげで、場所
 が確定できました。海岸線もその地図をもとに推定しました。

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 慶長五年庚子  秀成公 御年三十一歳

※自ら幕引き 太田飛騨守一吉 臼杵城 退去

太田飛騨守は諸臣を集め、今 東西両軍の勝敗も明白となりたるに

我れ 此孤城を嬰守するは、何の銓もなきことであるが、

ただ中川に攻め寄せられて 其の儘 開城したりと言はゞ

天下後世 我が怯懦(きょうだ)を嘲けられんことも

武門の恥辱なりと思ひ、快きー戰をと望み居りしに、

中川の名士をも多く討取り、其他討取りたる諸浪人も

すぺて世に名を知られたる勇士共なれば

我が武名は既に立ちたるものにて 此上に敵味方を損傷することは、

我志でない、されば我は今夜 此の城を退散すれば、汝等留まりて

明日中川に此の城を明け渡せ、秀頼公の御安否も気つかはしきに、

我しばらく身を潜めて世の成行を覗はねばならとぬと言い置き、

其夜深更 政信は城を脱け出でゝ伊豫に去り、

翌れば十月六日、臼杵城は中州秀成の手に落ちたのであった。

※その後、太田飛騨守は、京都に隠棲し、元和3年(1617年)に死去した。

※ウィキペディアによると、関ケ原の戦いで、太田飛騨守の甥・太田政成は東軍、

 息子の一成は西軍に与した。自分は臼杵城に籠った。そのため、西軍とみなされ、

黒田如水、中川秀成に攻められた。

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