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寛政11(1799年)年巳未10月4日は佐賀関戦死の人々、

200年の遠忌の処、萱野五右衛門正利、下村平左衛門重吉両人の子孫より、

同所の三毬打鼻、平右衛門、喜太郎墓所の近辺に新たに墓を造立し、

碑文も彫刻せし由也。

天明4年(1784年)の秋、佐賀の関にて、

福正寺和尚幷(ならびに)町人の老輩の者の云いし如く、

平右衛門、喜太郎、紹忍3人の墓の外は、今は知れぬ由なるに、

墓は何を據り所に極(き)め建てしにやあらん。

又、喜太郎墓所にありし、大木の松は、

近年、文化中(1804〜1818年)に枯れし故、

福正寺現住、卓憧和尚に、広計相談して、今は代木の松を植え置し処、

追々生長すと云う。

今、円福寺の喜太郎墓の後ろの方に、並び5つこれある五輪小石塔は、

佐賀関にて同時に戰死せし、従兵5人の墓にて、

是も、寛文中(1661〜1673年)に蓮成寺より引き移せしまゝなるが、

寛延2年(1749年)、150年忌の節、

法号知れぬ由にて、大多仁左衛門を宗優信士、三宅小平次を完了信士、

三宅勘十郎を即往信士、森下三郎を友哲信士、清原彦三を了運信士と、

その時の円福上人より追号にて、佛事執行ありし由。

然るに、寛政11年、200年忌に付、此の時の円福上人、

右の5つの小石塔の苔むしたるを、よく洗い改めしに、慶長の時の法号あるを見て、

上人自筆に書写し広計におくれり。左の如し。

    大多仁右衛門    玄祐 ・・・(宗勇)

    三宅勘十郎     玄眞 ・・・(即往)

    三宅小平治     宗碩 ・・・(完了)

○玄琢居士

    森下三郎      道味 ・・・(友哲)

    清原彦三  此の塔の紛失にて法号不詳 贈 了運

※中川平右衛門の墓、左は昭和初年、右は今年5月撮影したものです。

 凡そ、90年の時が経過しています。

 

 

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2枚の写真は佐賀関史の本からコピー
 寛政11年(1799年)巳未2月、広計江戸より豊州に皈る(帰る)時、

(大分市鶴崎)三佐着船のうえにて佐賀の関先祖の墓参りの義、

江戸出立前、御暇申上置しにより、三佐より歩行にて参詣す。

此の時、福正寺にて和尚に面会し、寺にある古き過去帳を見て、

左の通りの事、書き抜きし。其の写。

当寺、前住竹甫和尚焼香也

劍樹院殿    竹田岡城主 中川家之臣 

古田喜太郎殿 事 重則 

当所 済度寺山竹藪にて戰死

竜泉院殿巌道一勇居士 竹田岡方之軍鑑 

榧野(萱野)五右衛門殿 事

              当所 歳神田にて戰死

    ☆ 十月四日 龍泉院殿嚴道一勇居士 萱野五右衛門

           中川家軍鑑○野五右衛門事当所歳神田ニテ戦死

           津山治左衛門祖也 ☆

普関了悦居士  中屋入道了悦(宗悦) 事

              当所 古城下にて戰死の由

    ☆ 十月四日 普關了悦居士

           鶴崎入道了悦 事

           当所 古城下ニテ戦死

   傑山了嘉居士  柴山入道了嘉(両賀) 事

              同所にて戰死

   劍林道樹居士  牧 勘右衛門 事

              烏帽子嶽渓にて戰死の由  以上

     ☆ ☆は佐賀関史   ※(  )は御年譜に載る氏名

※萱野五右衛門、中屋宗悦二人の墓は、写真では立正寺とありますが、

 立正寺の住職の話「二人の墓も、中川家関係の墓はありません」

 

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                                              不染斎随筆に書かれている墓の形状、寸法

右見分より皈(歸・帰)りて、

同姓、中川覚左衛門(後に藤四郎と云う)広倫に是迠、

佐賀関の先祖の墓あまり小さく、其の上、石塔の文字もなく、

後年紛らわしくならんも、はかり難し。

外の墓、構えはそのまゝにして、上の石塔は新に造立し、文字も彫刻し、

不朽成らしめんと申談(広倫と相談)し、

天明6年(1786年)丙午5月、石塔を建替える。

右は、碑文の事ある故、家原軍太光賢を以て、観山公に内々にて御覧にいれしに、

碑文は広計、自筆にしたため、然るべき筋に思召よし御意に付、

則ち自筆に書士しを犬飼にて彫刻し、同年8月に佐賀の関には建しなり。

 此の時、三佐奉行は菅六郎左衛門相頼にて、諸事、菅氏の世話にて相済ましなり。

     右、碑文写

       君 諱 重則 姓 大江族 古田弥喜太郎 仕吾

       先君 碧雲公 而 為国老 禄2300石 慶長5年臼杵役

       君 経此地過賊兵 戦死 行年24 実10月4日也

         天明丙午夏5月

           岡藩臣孝孫建立

※不朽成らしめんと・・建てたこの墓が、市街地の整備、海の埋め立て等が 

 あったためか、行方が分かりません。

佐賀関史の墓の写真にも載っていません。

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